3 剣もて守るもの

La Dolce Vita

【3 剣もて守るもの】 



「プルーア!」

枢機院の扉の向こうから少女の声が響いた。
ヴィーゼからわずかに遅れて外へ飛び出すと、崖際の手すりの上に姿を見せた闇のマナと、そのマナの差し出す手につかまろうとしているヴィーゼの姿がフェルトの目に飛び込んでくる。

「ヴィーゼ!」

一瞬、フェルトを振り返って見たヴィーゼの顔が、すぐにそらされた。
フェルトはその後の行動を察してヴィーゼの傍に駆け寄ろうとするが、それよりもはやくプルーアが彼女を抱き上げた。

「まて!プルーア、ヴィーゼを下ろしてくれ!」

ヴィーゼの足が地面から離れるのを見たフェルトは、慌ててプルーアを制止しようとする。
けれども、常と変わらぬ静かな表情をたたえたプルーアは、フェルトをちらとも見ることなく、身を翻す。

「プルーア!…ヴィーゼ!」

目の前でヴィーゼを連れ去られる形になったフェルトは、手すりを掴んで彼女たちの名前を叫ぶ。

…ヴィーゼと契約したマナたちは、契約者であるヴィーゼと変わらず、彼女の家族であるイリスやフェルトに接する。
ただし、いざとなればマナたちはヴィーゼの言葉を優先する。契約する前から彼女たちの知り合いであるドゥルであってもそれは同様で、以前やんわりとではあったが、ドゥルがフェルトに釘をさしていたこともあった。
そしてその中でも特に、闇のマナであるプルーアはヴィーゼを優先する傾向が強かった。

「…っ!」

舌打ちをするような表情を一瞬だけ閃かせて、フェルトは枢機院へきびすを返した。
親しい友人の思わぬ場面を見せられて、目を丸くする金のマナの前を無言で通り過ぎ、建物の中を通って中庭を走り抜けると、薬草園の脇の茂みの中に分け入る。
幼い頃から枢機院を出るまで、日に何度も使っていた抜け道だったのだが、ノイアールに移ってからはほとんど通っていなかった。
伸びた枝が絶え間なく体を打ち、足元に這う蔓が行く手を遮るが、フェルトはその痛みに耐えながらその先に急ぐ。
しばらく進むと不意にフェルトの目の前が開け、茶色の岩肌が飛び込んできた。
フェルトはそこで一旦足を止め、しかめていた目を大きく見開き、目の前に広がる風景を見つめる。
岩の多い地面が足元から眼下の森に向かって広がっている。
その森の向こう、フェルトの左手の方に小高い丘が見えた。そこからわずかに右にそれて、小さな『島』がある。
ぽつりと、頬を打った空からの雫に目を眇めてたフェルトが、その場所へ近づく小さな人影を見つける。

「…いた」
今は、少しでも早く彼女に追いつきたい。
呟くと同時にフェルトは地面を蹴って、険しい斜面を一気に滑り降りはじめた。

 

 


月の塔。
闇のマナの聖地。

その聖地の入り口まで来たところで、ヴィーゼは自分を運んでくれているマナに声をかけて、地面に下ろしてもらった。
このまま、聖地の奥まで行けるとプルーアは言ったが、さすがにそれは失礼だとヴィーゼが止めたのだ。

「ありがとう、プルーア」

いつもならばにっこりと、花がほころぶような笑顔で礼を言う彼女だが、今はその笑顔がない。硬い表情でどこか沈んだ様子のヴィーゼに、プルーアも表情を曇らせる。

「ほかに、私がお手伝いできることはありませんか?」

彼女が望んだこの場所につれてきたのは自分だ。
それに、この場所はマナにとっては自らが生まれた故郷のようなものである。
ヴィーゼがここに用があるのなら、何らかの役には立てるはず。
その意味を込めてプルーアはたずねたのだが、ヴィーゼはふるふると首を横に振った。

「大丈夫。プルーアがここまで連れてきてくれたおかげで、すごく助かったから」

そう言って一人で聖地の奥へ向かったヴィーゼを見送って、しばらくするとプルーアはすっとその姿を大気に溶け込ませた。



ひとりになったヴィーゼは、俯きながら歩いていた。
この場所へはあることのために来ているのに、心の中はずっと、フェルトの言葉を繰り返し思い出していた。

―どうして。
心の中で呟くたび、フェルトの声がよみがえる。
『ヴィーゼにはベルクハイデの調査をさせないって…!』

どうして、どうして。
なんで、そんなことを言うの?
なんで、そんなことをしたの?

クロイツに向かって詰め寄るフェルトの険しい声。
振り返ったときの、自分を見つめた表情。
恐れに似た表情で振り返ったフェルトの姿が、目の前から消えてくれない。
呼び止めるフェルトの声はもちろんヴィーゼには聞こえていた。
だけど、フェルトの声に応えて足を止めることは出来なかった。
聞きたいけれど、聞きたくない。
矛盾していると気づいているけれど、正直なところ、混乱している今はそのことを考えたくない。
唇を噛み締めて立ち止まったヴィーゼは、ぱしりと両手で顔を叩く。
…どんな約束がフェルトとクロイツ枢機院長の間で交わされていたとしても、ヴィーゼが依頼を受けたことには間違いなかった。

「…闇の源素が切れてるから、出発前に集めておかなきゃ」

木素や水素、火素などは旅の途中であっても手に入りやすい。それに対して闇や光は、よほどの機会でなければエデン以外の場所では手に入りづらい。
そのため調査員は出発前に聖地に立ち寄ることが多くなっていた。
少し歩いてたどり着いた月の塔の入り口の前で、ヴィーゼは立ち止まる。
ふと名前を呼ばれた気がして、声が聞こえた場所を振り向く。
そしてその視線の先に、いるはずのない人物を見つけて、ヴィーゼは驚いて目を見開いた。

「…フェルト」

枢機院から、月の塔まで。
マナの力を借りたヴィーゼとは異なり、こんなに短い時間でフェルトがここにたどり着けるはずがなかった。
どんな手段を使ってここまでたどりついたのか、フェルトは随分息を切らしていたが、まっすぐにヴィーゼに向かって歩いてくる。

「ヴィーゼ」

空耳のように聞こえた先ほどの声ではなく、はっきりと呼びかけられて、ヴィーゼはフェルトのほうを向いたまま後退る。

「…やだっ」

フェルトが何かを言いかけたのを察して、ヴィーゼはぱっとフェルトに背を向けて走り出した。その先が聖地の入り口ではなく、そこからわずかにはずれた岩と岩の隙間のような…大洞窟の入り口に似た場所であることに気づくと、フェルトは顔色を変えた。

「ヴィーゼ!そっちに行っちゃダメだ!」

ヴィーゼを呼びながら、そのあとを追いかける。
黒いつるつるした石が下に向かって続く岩場をフェルトが半分ほど降りたとき、大きな水音と少女の悲鳴が聞こえた。

「ヴィーゼ!」
 


 




フェルトがヴィーゼを追いかけ、開け放ったままの扉の前に、しばらくして一人のマナが姿を見せた。

「クロイツ様」

「ルテネス」

その声にルテネスは頷くと、扉をゆっくりと閉めて机の前に近づいてくる。

「先ほど、フェルトとヴィーゼが下へ駆け下りていきましたが…」

言いかけてクロイツの表情に気づくと、その先は続けず口を閉ざす。
彼の心の中に浮かんでいるのだろう、その姿に思い至った。

「フェルトとヴィーゼについては気になりますが、おそらくは大丈夫でしょう」

ルテネスの言葉に答えて、クロイツは椅子に腰掛けたまま彼女を見上げる。
…多少、元の状態に戻るのに時間はかかるかもしれないが、二人の間できちんと話がなされれば、問題ないだろうとも思っていた。それに、すでにひとつ手は打ってある。
答えながら見上げたルテネスの気遣う視線に、クロイツは口元に小さく苦笑を浮かべた。
話を区切るように、一時沈黙する。

「…。予想以上でした」

その言葉にルテネスも目を細める。
誰のことを言っているのかは、ルテネスもすでにわかっていた。

「髪型が変わったせいでしょうか…私も、一瞬目を疑いました」

すれ違う一瞬、その姿に、かつての『彼』の姿が重なって見えた。
ルテネスであってもそうなのだ。
ましてや、クロイツであればなおさら、その衝撃は大きかっただろう。

「そう、ですね。言われてみれば…あのひとのものによく似ていました」

はじめてそのことに気づいたように、クロイツは言葉を続ける。
自分よりも年上の、クロイツが錬金術の勉強のために枢機院を訪れてから知り合った、…昔、彼とならんで次期枢機院長と目されていた人物。
親友とも呼べた、同時に尊敬する先輩である、フェルトの父親。
年を重ねるごとに、フェルトの姿はかつての彼に近づいてゆく。
片手で顔を覆ったクロイツを、ルテネスはじっと見守る。
妻が身ごもっていることを知らないまま命を落とした彼と、それから生まれたフェルトを引き取るまでの事情についてはおおよそ聞き知っているが、当事者ではないルテネスが知らないこともある。

しばらくするとクロイツは伏せていた顔を上げた。
そこにはそれまでの過去を思い返すような気配はなく、常に彼が見せている表情に戻っている。

「それで、ルテネスがこちらにこられたのは?」

そんなクロイツにルテネスは胸に書類抱えていた書類を差し出した。

「月の塔周辺についての報告書です」

それはエデン枢機院に知らせが届き、フェルトが調査を行った件だった。
すでにフェルトからはクロイツに報告があり、ルテネスの持っているものはその確認と、今後の対応について長老を含む闇のマナたちからの意見がまとめられているものだ。

「希望は『これまでどおりに』。ですが…湖水によって穿たれた穴はすでに抑えられないほどになっています。それを修復しようとすれば、現在のアギトの泉との境界に接してしまうため、枢機院と、泉の長老と塔の長老の三者で相談したいということです」

「そうですか…」

「見つかった闇素の数から言えば、そのままのほうがよいのかもしれませんが…」

「それは違いますよ。ルテネス」

錬金術を行うものにとって源素はとても重要なものだ。
中でも特に命・光・闇の源素は、限られた場所に少量ずつしか採取できない。
それを歯がゆく思う者も確かに存在はしているが、クロイツはそうあるべきだと思っていた。
扱う技術を持っているからといって、それを好きにしていいとは限らない。
かつての自分を知っているルテネスを前にそう告げたクロイツは、心の中で自嘲気味に言葉を続ける。
そう…それにどんな理由があったとしても。

「クロイツ様…?」

たずねたルテネスの姿が一瞬影に包まれる。
視線を上げたルテネスの目に、黒い雲に覆われた空と激しく滴が叩きつけられる窓が見えた。
 

 




それまでぱらぱらとだけ降っていた雨は、二人がその場所に移動した直後に、激しいものに変わった。
雨をしのぐために移動した岩場にヴィーゼは無言で座っている。
ぽたぽたと雫が落ちる服をぎゅっと両手で抱きしめて、その姿は何かを守っているようだった。

「…しばらく雨宿りした方がいいみたいだ」

雨に濡れないぎりぎりまで外に出て、真っ黒な雲に覆われた空をみあげていたフェルトが、そう言いながらヴィーゼの近くまで戻ってくる。
けれど、無言のままフェルトと視線を合わせようとしないヴィーゼに、それ以上の言葉を飲み込んだ。
こちらを見ないヴィーゼに、フェルトも長い間視線を向けるのをためらい、黙って手近な岩の上に腰を下ろす。
重苦しい沈黙が続く中、石に叩きつけられる雨の音だけがその場所に響く。
お互いの顔も見ないで、黙ったままの状況に耐え切れず、フェルトは顔を上げてヴィーゼを見る。
と、そこで初めてフェルトはヴィーゼの顔色が真っ青なことに気づいた。

陽の差さない場所で、しかも悪天候から常よりも辺りは暗い。
外を見ていた自分の目はすぐには闇に慣れてくれなくて、先ほどは気づかなかったのだ。
足を滑らせて水の中に正面から飛び込んでしまったヴィーゼは、ほとんどずぶぬれの状態だった。けれども季節は夏を迎えており、寒くはないから大丈夫だとフェルトは思っていたのだが、違うようだ。
少しの間自分の上着を見ていたフェルトは、おもむろに服を脱ぎ始める。
上着を脱ぎ、タイを止めていた金具を外して、長いチェニックに似たシャツをベルトの下から引っ張り出す。
それまでフェルトの方を見ていなかったヴィーゼも、この突然の行動には驚いて目を大きく瞬かせた。

「ヴィーゼ、これ…」

青い上着もその下のシャツも脱いで、上半身裸になったフェルトはその二つを、目を丸くして見つめているヴィーゼのほうへ差し出した。
両腕で体を抱きしめたまま、戸惑うヴィーゼにフェルトは言葉を重ねる。

「少し、汗臭いかもしれないけど、今のずぶ濡れのままよりいいだろ?着替えておいでよ」

言いながら岩場の奥を目で示す。
そこは岩が出っ張り衝立のようになっていて、ヴィーゼたちのいる場所からは奥が見えない。

「…。…うん、わかった」

ヴィーゼは一瞬首を横に振ろうとしたが、フェルトと目が合って小さく頷いた。
そして体を抱いていた腕を伸ばして服を受け取ると、そのまま奥の岩陰に向かった。
フェルトの目から見えない場所に来ると、ヴィーゼは気づかれないように小さく息を吐く。

フェルトと一緒にいて、こんなに気詰まりになったのは初めてだった。
きっとフェルトは、ヴィーゼに対して言いたいことがあるのだろう。
けれども、ヴィーゼの様子を見て、言い出すきっかけがつかめていないのだということもわかっていた。
そしてそれは、ヴィーゼも一緒だった。

「…」

ヴィーゼは乾いた岩の上にフェルトの服を置き、自らの水が滴るほど濡れた服に手をかける。感覚が鈍くなった指先は思うように動かなくて、青い服の胸元を止めるチョーカーはつけたまま、一度外してしまったら、その重みで上手くつけられなくなったベルトも外して、下着だけになる。
途端に冷気が肌を伝い、ヴィーゼはフェルトのシャツを手に取る。
そしてフェルトのシャツに手を通すと、思わぬ温かさに顔が熱くなった。
見た目より大きなシャツの布を介して、ほのかな体温の名残と彼の匂いがヴィーゼの体を包む。
日頃は意識しない、気づかないようにしていることを、ヴィーゼが不意に思い出してしまうのは、こんなときだった。
きゅっと、胸元の布を片方の手で握り締める。

ヴィーゼの知らない間に、フェルトはどんどん先に進んでいく。
小さい頃はずっと一緒で、一緒に歩いていけると思っていたけれど、近頃はその距離を以前よりも遠く感じてしまう。
「ヴィーゼ」と、いつも何があっても彼女を振り返って呼んでいた彼の視線は、年を重ねるごとに別の方向を見始めていた。
遠くを見つめ、夢を語る幼馴染のきらきらした表情は、見ていてどきどきするほど素敵なものだったけれど、今はその顔を見るのが少し辛かった。







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