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翌朝、目を覚ましたヴェインが昨夜の話をもう一度繰り返すと、サルファは丸い目を半眼に細めてその顔を見た。
「駄目…?」
おずおずと問いかけると、サルファは「ふん」と鼻を鳴らす。
「好き好んでいくような場所じゃないと思うがな」
「…サルファは、好きじゃなかったの?」
「ああ。嫌いだな。よほどでなければ近づこうとも思わない」
人間が多くて騒がしいし、ヒトの姿をみればすぐに追い払おうとする。
以前の飼い主と一緒に旅をしていた頃は、彼のそばにいれば露骨に追われることはなかったが、すこし彼と離れて一匹でいると、野良猫と間違われることが多かった。
「そうなんだ…じゃあ…ひとりで…」
一人では不安で心細いから、サルファに一緒に来てもらおうと思っていたヴェインは、その言葉にうつむきながら呟く。
目を丸くしたサルファにヴェインはぎこちなく笑顔を浮かべた。
多分、ヴェインの様子からこう言われれば諦めるというだろうとサルファは思っていたのだが、その予想に反して彼は一人で行くという。
「少しだけ、行ってくるね」
そう言って、森の外、麓のほうに歩き出したヴェインの後を、間を空けてサルファは無言のままついて歩き出した。
「…サルファ?」
そのことに気づいてヴェインが振り返ると、サルファは嫌そうに顔をしかめながら彼の傍まで追いついてきた。
「行きたいというなら仕方ないだろう…そもそも道も知らないのに一人で行けると思うな」
「…そうだった」
指摘されてからそのことにはじめて気づいて、ヴェインが呟く。
それに対してこれ見よがしの呆れたため息をついたサルファに、頬を染め顔を情けなさそうにしかめた。
「呆れないでよ…」
「…これで呆れなくてどうするんだ」
「ちょっとだけ。サルファに聞くのを忘れてただけだよ」
「あーはいはい」
「なんか、すごく適当な…」
「そんな状態でまだ一人で出歩かせられるか。あぶなっかしくてしょうがない」
「うー…」
前ほどじゃないと思うんだけどなぁ。
言いかけたサルファへの言葉はヴェインの口の中だけで消えてしまった。
ヴェインにしてみれば、確かにまだ一人であれこれ出来るとは思っていないけれど、サルファと出会ったばかりの頃とは違うと思っていたのだが。
まだ記憶に新しいサルファを探して森で迷ったことや先日の木登りのこともあり、はっきりとは反論できなかった。
街への道は山の途中から踏み固められ、その部分だけ他の場所よりも草の丈が短い。
時々ヴェインが足を木の根に取られながら、一人と一匹は山を下っていた。
徐々に頭上の木々の枝が少なくなり、薄暗かった辺りに日が差し込み始める。
「眩しいね」
「そうだな」
「温かいし」
「山と麓だと、高さもちがうからな」
「そうじゃなくて」
麓までたどり着き、目前にひらけた風景にヴェインは立ち止まると、まるで日の光を受け止めるように、掌を上に向けて差し出す。
「陽の光が、ね。…あったかいなぁって」
サルファもその言葉につられて、高くなっている太陽を仰いだ。
すでに冬のものになっているその日差しは、他の季節よりも直線的である。
夏ほどの激しさはないが、けれど春や秋のような優しさには欠けたものだった。
だがこれまで森を出ることなく過ごしてきたヴェインにとっては、何にも遮られることのない日差しを浴びることをほとんど経験したことがなかった。そのせいかサルファの目からは、ヴェインは体に触れた陽の感触を心から楽しんでいるように見える。
ひとしきり陽の光を堪能したのか、ひらひらとかざしていた腕を下ろし、ヴェインがサルファを見た。
じっと見つめているサルファの視線に、ヴェインははたと今日の目的を思い出したらしく、頬を赤くする。
「あ…待たせてごめんね。行こうか、サルファ」
「ああ」
促すヴェインに頷いて、サルファは先導するように歩き出す。
そして街の入り口に当たる川にかかった橋の前までたどり着くと、念のためサルファは立ち止まった。
くるりと振り返りヴェインを見ると、案の定、緊張でこわばった顔をしている。
「おい」
「な、なに!?サルファ」
普通に声をかけただけなのに、返すヴェインの声はすこしひっくり返っていた。
「…大丈夫か?」
本気でサルファは心配してそう尋ねたのだが、いつものからかいと同じととったのだろう。
ヴェインは拗ねたように眉をひそめ、頬を幾分赤くした。
「大丈夫だよ。そこまで何も出来ないわけじゃないんだから…」
「まあ、ヴェインがそういうならいいけどな」
サルファの言った理由をわかってないみたいだが、あえてここで説明するのは面倒、とおもったわけでは決してない。
「これから街に入るが、ヴェインは俺の傍を離れるんじゃないぞ。森とは違うんだからな」
「うん…わかった」
きっちりとヴェインに向かって座りなおし、真面目に告げたサルファに、ヴェインも自然と表情を引き締めた。
街の中にある大きな通りには、昼過ぎということもあり他の場所よりも人が多かった。
だが森や山に囲まれた田舎で特筆すべき特産物もなく、あるいは他の地域を結ぶ交通の要所というわけでもなかったため、街そのものも周りの村などに比べて幾分栄えている…といった程度でもある、
それでも、ヴェインにとっては目新しいものばかりだ。
街の入り口で緊張しきってこわばっていた表情も緩められ、目に飛び込んできたものそれぞれを前を行くサルファに尋ねている。
「人がいっぱいで…すごいね。あ、サルファ、あれは?」
「果物屋…八百屋だな」
「へぇ…ならあの人はよっぽど何度も木に登ったんだね」
それに山にはもうあんなに実をつけた木なんてないから、すごく苦労して集めたんだろうな…。
ある意味見当違いなことで感心しているヴェインに、サルファはふうと息を付く。
「そうかもしれないな」
「あれは? あれはなに?」
「肉屋」
「…羽も毛皮も付いてないよ?」
「それをとって、中身だけ売ってるんだ」
「売る?」
「ああ。タダでやるわけじゃない。お金というものを出せば、あいつらはあそこに並べているものを渡してくれる」
その言葉に、ヴェインは小さく首をかしげた。
「…お金って、サルファ持ってるの」
「持っているわけないだろう。俺には無用のものだ」
「じゃあ、あんなに食べ物があっても、もらえないってこと?」
「そうだな、盗めば別だが」
「盗むって…そんなのよくないよ」
近くを歩いていた街の人間がサルファと話すヴェインにぎょっとして振り返った。
だが、ヴェインはそれに気づかないで、サルファと話を続けている。
「ああ。だからヴェインにはここにある食べ物は食えないってことだな」
「それならそうと…もう…」
言いながらふと視線を上げて、ヴェインはそこで初めてまわりの人間の様子に気づいた。
入り口を入ってからしばらくは緊張していて周りの様子を注意していたのだが、今はすっかりサルファとの話に気を取られて、それを忘れていた。
「…あれ…?」
店の前を通るたびにいろいろな人に声をかけられて、律儀に返事をしていたヴェインは、呆れ交じりのサルファに何度か叱られていた。そのときの店の人の笑顔と、今向けられているものはすこし違っている。
「ねえ、サルファ。なんだか、ぼくたち見られてない…かな?」
じっと見られているわけではないのに、ヴェインが視線をはずした方向から、時々ちくちくするようなものを感じる。それはあまり気持ちのよくないものだ。
「…そのようだな」
「ん…なんだろう…」
サルファと話を続けていると、今度は視線だけではなく声も気になり始めた。
小さなひそひそ声のような。森の中で遠く聞こえる鳥の声ほどの大きさに似ていた。
思い切ってヴェインはその声のほうに振り返ると、彼らを見ながら頬を寄せ合って話をしていた女性二人に声をかけた。
「あ…あの…なにか、僕に御用、ですか?…え、あれ?」
緊張して、どもったりつっかえたりしながらヴェインはそう問いかけたのだが、彼女たちは声をかけられたとたん『きゃっ』と小さな悲鳴を上げて逃げてしまった。
後に残されたヴェインは目を丸くして立っているだけ。
「ヴェイン」
困惑しているヴェインに、サルファは近づくと落ち着かせるようにすりっと体を摺り寄せた。
「うん…なに?」
「そろそろ森に戻るぞ」
「え?もう?」
唐突なサルファの言葉に思わずそう返したのだが、周りの視線からさらに居心地が悪くなったことを感じて、仕方なく頷いた。
初めて人間の町を訪れてから、数週間。
ヴェインは古い暖炉の前でパチパチと静かにはぜる火をぼんやりと見つめていた。
季節は冬に入り、ふたりの住む森の奥の屋敷にも、木々の合間を縫うようにして冷たい風が吹き付けるようになった。
寒さから自然と外を歩き回る時間が減り、かわりにお腹が満たされることが少なくなる。
それでも時折釣りの道具を抱えて川に行けば魚を何匹か吊り上げられるから、本当に飢えることはなかったけれど。
「ねぇ。サルファ…」
ぽつりと呟いた声は、傍らで目を閉じている黒い友人の名を呼ぶ。
四肢を曲げ香箱を作り、目を細めているサルファはとてもここちよさそうだった。
急に寒くなった頃から、サルファはあまり外を出歩かなくなった。
少なくともヴェインの知る限りにおいて、今迄で一番よく眠っているし、屋敷の中にとどまっている時間も長い。
近頃は釣りや暖炉にくべる薪を探す時にも、ヴェイン一人ということもたびたびになっている。
「…」
「…どうした?」
そのまま言葉を続けようとして言いよどんだヴェインに気づき、サルファは目を開ける。
金色の目に見つめられ、すこし慌てたようにヴェインは小さく首を横に振った。
「あ…薪が少なくなってるから、取ってくるね…」
「ん? ああ…」
薪ならそこにあるだろう?と、暖炉脇の床をサルファが示すより先に、ヴェインは立ち上がると部屋を出て行ってしまった。
ヴェインには珍しい様子に、サルファは扉を眺めながら目を細める。
以前からよく心ここにあらずの顔で、何事かを考えていることが多かったヴェインだが、最近特にその傾向が強くなっていた。
その理由が容易に思い当たり、サルファは耳を伏せて考え込むようにもぞもぞと前足を動かす。
人間に出会ってから。
正確には、自分以外の人間がいることを知ってから。
「……」
人に関わりたいと願うのは、やはり彼が人だからなのだろうか。
そう願うなら、自分には人間であるヴェインを止めることはできないだろう。
サルファは、ヴェインがときおり山を下りて街近くまで行っていることを知っていた。
街の中までは入っていないが、入り口前の橋を渡る人の姿をよく眺めていた。
見つめる横顔に、かすかに人恋しく思うさびしげな笑みが浮かぶ。
サルファは気づかれないように遠くから、その様子を見ていた。
それからさらに数日。
目が覚めてからしばらくして部屋の中をうろうろと歩き回りはじめたヴェインを、サルファは寝床代わりにしているソファの上から眺めていた。
それまで手を伸ばして触ることはあってもそのまま動かさないでいた、その程度の興味しか持っていなかった花瓶や置物を抱えて、ヴェインは棚の上や暖炉の側を覗き込んでいる。
「うーん…」
「みつかったか?」
くぁ、と口を大きく開けてあくびをしながら、サルファがヴェインの後姿に声をかける。
「まだ…。サルファ、それって丸いんだよね」
大きな花瓶を抱えたヴェインは振り返らずに、背伸びをして棚の上を覗き込みながら答える。ヴェインが声を出すたびに、ふわふわと棚の上に積もった埃が舞い上がった。
「ああ。俺が知っているものはな」
「…さっき見つけたのは違うって…」
「あれは大きすぎる」
掌ほどの大きさの金属板をヴェインが持ち出してきたのが一時前。
サルファに一言で駄目出しされ、それからずっと探している。
重すぎた花瓶を床に置き、もう一度棚の上にヴェインは手を伸ばす。
目が届かない部分を手探りで探そうとする姿に、サルファは呆れて体を起した。
「あ、サルファ!」
部屋を出て行こうとするサルファに気づいて、ヴェインが慌てたように振り返った。
「まあ、ヴェインが思うだけ探したらいいさ。俺は出かけてくる」
「ちょっとまってよ。見たことあるの、サルファだけなんだから。…少しくらい手伝ってよ」
「…そのドタバタが収まった頃に戻る」
「待ってって…あ…もう…」
言いながらさっさと部屋を出て行ってしまったサルファを、形として見送ったヴェインは、最後まで言葉を続けられずそれをため息に変えてしまう。
森に帰ってからもずっと、サルファと出掛けた街について話していたのだが、その中でふと彼が教えてくれたのだ。
『お金』を見たことがないヴェインに、自分たちが住んでいるこの屋敷の中にあるかもしれない…と。
場所についても棚の上や、部屋の隅で見かけた…ということまで教えてくれたのに、いざ探し始めると、サルファはあまり気乗りしない様子になった。
「…やっぱり、わかっちゃうのかなぁ」
口実にしようとしていることが。
素直に、『街に行きたい』と言えばいいのだと分かっている。
だが、彼の目を盗んで何度もその傍まで行っていたせいか、言い出しにくかった。
それに、『お金』があればいいなと思ったのも事実だ。
もしそれがあれば、街へ行って食べ物が手に入る。
「…サルファだって、ごはん食べたいんだから…」
言いながらヴェインは棚の上に戻そうと、床においていた花瓶を手に取った。
ふと、花瓶の底を覗き込んで動きを止める。
慎重にひっくり返すと、澄んだ音を立てて丸い金色の金属片が転がり出てきた。
…それからしばらくして帰ってきたサルファは、出迎えたヴェインの格好に目を丸くした。
「おかえり、サルファ」
「…また、ずいぶん探したようだな」
寒くなってからここ暫らく水浴びをしていないのだが、それでも今朝よりも段違いに埃にまみれたヴェインに、サルファは思わず一歩退く。
「うん、奥の物置まで探したんだ。でも2階には行ってないからね」
いつ開いたのかは分からないが、2人が気が付いたときには2階に続く階段の途中に、まるで重いものを落としたように大きな穴ができていた。しかも老朽化しているため雨漏りの跡が激しく、残った階段も踏むと賑やかな軋みを立てる。
そのこともあり、以前2階に興味を持ったヴェインが上ろうとして、サルファに注意されたのだ。
危険だと言われて、ヴェインはそれからずっと近づいていない。(08/01/06)
「その顔だと、収穫はあったみたいだな」
「うん。確認してもらうまでは、分からないけど」
普段の少年には珍しく、やや得意そうにサルファを見ている。
サルファは片耳を伏せて、彼が開けた扉をくぐり部屋に入った。
火が入った暖炉の前に、擦り切れて元の色がわからなくなった灰色の絨毯がある。
その上にふたりで座り込むと、ヴェインはサルファの目の前にひとつずつ集めた『お金』を並べていった。
金色と銀色と赤茶色のものが二つずつ。
あとは銀とも金ともつかない色合いのものが一つ。
サルファはヴェインを見上げる。
ヴェインの視線は、サルファと、その前に置かれた丸い金属板の間を交互に移動している。
どうしてそこまで―、そう思わないわけではない。
しかしサルファは何も言わず、前足を器用に伸ばすと、目の前の一枚をはじいた。
ぱし、ぱし、ぱし。
金色2枚と赤茶色の1枚を残して、残りのものが暖炉脇の煉瓦に当たる。
「…俺が知ってるのはこれだけだ」
「じゃあ、これを持っていけば街で買い物できるんだね」
「たぶんな」
目の前の1枚を指でつまみ上げ、ヴェインが興味深そうにそれを見つめている。
サルファは残りの2枚をまたいで暖炉の前まで行き、ヴェインに背を向けてくるりと丸くなった。
背を向けているから、ヴェインが何をしているかはサルファには見えない。
だがしばらくするとごそごそと音がして、すぐ傍にヴェインが来たのがわかった。
閉じていた目を開けると、サルファにあわせるかのように、ごろんと絨毯の上に寝転がっている。体を横倒しに、首をかしげるように顎をやや上に向けて、伸ばしっぱなしになっている長めの髪が、暖炉の火に明るく染まる。
「疲れたのか」
サルファの声にヴェインがうっすらと目をあけた。
「うん、ちょっとね。朝からずっと探してたし…。あ、そうだ。サルファ、ごはんは?」
寝転がったまま伸びをして、ふと気づいたようにサルファに向き直る。
「外で食べた」
短いサルファの返答に、ヴェインの目が丸く大きく見開かれる。
それもすぐにうらみがましい、というようにしかめられた。
「えぇー。自分ばっかりずるいよ。僕食べてないのに…」
「食べればいいだろう?昨日の残りがあっただろうに」
「サルファも食べると思って、後回しにしてたんだよ」
その口調に慣れているサルファが平然と続けると、ヴェインは頬を幾分膨らませて反論する。だがそれも次のサルファの言葉で、がっくりとあきらめ顔にかわった。
「食べられる時に食べておかないと体がもたんぞ」
「サルファがそれを言うかな…。わかった、とってくる」
もそもそと力なく起き上がり、ヴェインが扉に向かう。
「塩はつけなくていいからな」
「つけたくてもないよ。…っていうか、サルファ。食べる気でいるでしょ。」
声に振り返ったヴェインがサルファを見ると、彼は丸くなったままふわふわと返事のように尻尾を揺らしている。
「駄目だからね。残りは僕が食べるんだから。サルファは明日」
その後姿に向かって、ヴェインは「いーっ」と精一杯しかめっつらをして見せた。
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