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出逢ったのは、秋の始まりだった。
日に日に冷え込む夜と朝には、部屋に作ったベッドから起きだすのが億劫になる。
だが、軋む扉の音が聞こえると決まって、ヴェインはぱちっと目を覚ます。
「サルファ」
そしてまず、かけがえのない家族でもある黒い毛皮の友人を探す。
半端に開けられた扉を押して、廊下へ。
薄暗いそこを通り抜けて、庭に出ると、大概彼はそこにいる。
そして、遅れて起き出してきたヴェインを呆れ顔で見上げるのだ。
「おはよう、サルファ」
「ああ、おはよう」
そしてサルファはヴェインの顔を見上げたまま、耳を片方だけ伏せて見せた。
「付いてるぞ」
「え?」
「でかいゴミ」
その言葉にヴェインはきょろきょろと自分の体を見回す、と、ふわりと耳の縁に大きな綿埃のようなものがくっついた。
「あ…」
「昨夜、寝床にもぐって寝たときに付いたんだろう」
「うん」
ヴェインは頷きながら手櫛で髪をすく。
もう妙なものは付いてこなかったが、いつもより髪が奔放にはねているのが、自分でもわかった。
なんとなく、サルファの視線が気になる。
一番はねていそうな右の髪を引っ張って少しだけ整えると、ヴェインはサルファに声をかけた。
「ごはん、探しに行くよね?」
「ああ」
朝起きたら、挨拶。それから、ごはんを探しに行く。
出逢ってから出来た『お約束』だが、ヴェインは疑問を感じることなく受け入れている。
そして「おはよう」を教わったのも、サルファからだった。
「じゃあ、すこし待っててよ。顔洗ってくる」
「今日は岩の向こうに行くから、途中の川で洗えばいいだろう」
くるりと屋敷のほうにきびすを返しかけたヴェインの背にサルファの声がかかる。
はた、とその道のりを思い出して、ヴェインは足を止めた。
「そっか…そうだね」
「いくぞ」
「うん」
促すサルファにヴェインは頷く。
以前は彼の後ろを歩くことが多かったが、今はもう慣れて、並んで歩くようになっていた。
サルファと一緒に行動するようになって何週間かは、ヴェインはずっとサルファの後を付いて回っていた。
まるで刷り込みをされたひよこのように、ずっと。
小さな黒い毛皮の姿が見えなくなるととたんに不安がったり、彼のやることなすこと、まねをしようとして、呆れられたり…だが、最近はそれも徐々に治まりはじめていた。
サルファが嫌がることも、あえてするようになったのも、この頃だった。
頭上に帯のように切り取られた青い空が覗く。
ヴェイン2人分の身長ほどの幅の川は澄んで、よくよく目を凝らすと、水底近くにちらちらと魚影がうつる。
ごはんを探しに行く途中立ち寄った途中の川で、ヴェインは川縁に膝を付いてばしゃばしゃと顔を洗っていた。
その脇の岩の上で、サルファが嫌そうにその様を見つめている。
「…毎度毎度、悪趣味なヤツだな」
「え…そうかな?」
ぷるっと顔を一振りして雫を振り落とすと、ヴェインの灰色の髪から滴る水がまるで靄の中の朝日のように白い光を浮かばせる。
「そうだとも。水なんかで体を洗うヤツの気は知れないね」
「水嫌いのサルファはそうかもしれないけど…僕が舐めてきれいにするのはさすがに限界が…」
「飯を食った後はよく舐めてるじゃないか」
「…あんまり見ないでよ、そういうとこ…」
ヴェインは恥ずかしそうにサルファをにらむ。
だが、サルファのほうはそれ見たことかと、ちらりと斜めにヴェインを見つめて、機嫌良さそうにふんわりと尻尾をゆらした。
…出逢ったのは、秋の始まりだった。
そしていまはもうその季節も通り過ぎようとしている。
出逢ったばかりの頃は、山や森の中にたくさんの食べ物があった。
サルファが探し出してきた竿を使って、魚も取れた。
でも、最近はめっきりそれも少なくなり、ごはんを探すためにかかる時間は日に日に長くなっていた。
「サルファぁ、無理だよ…いくらなんでも…」
「一度落ちたくらいで尻込みをするな。立派な猫になれんぞ」
「僕、多分猫じゃないし…」
「ほらそこ! くぼみに右足を掛けろ」
「うう…いじわる…」
足元から聞こえるサルファの叱咤に、ヴェインは言われたとおり右足を上げ、木の幹にあるくぼみにひっかける。
「力を緩めるな。ふんばって上の枝を掴む」
「…っぐ」
右足に力をこめ、体をわずかに浮き上がらせると、伸ばした手の先にある枝を掴んだ。
ようやく、目当てのものがある太い枝の上に上り、そこにまたがるとヴェインは大きく息を吐いた。
「ヴェイン」
見下ろすと木の根元にはサルファが座って見上げている。
「ついたよー…サルファ」
「じゃあ、実を取って下りて来い」
間髪入れない情け容赦ない言葉に、ヴェインは涙目になる。
「ちょっとくらい休ませてよ」
「たいして動いてないのに疲れるものか」
「動いてるよ。ここまで上ってきたもん」
「この程度の高さで何を言っているんだ」
「この程度って…」
言うが早いか、ほとんど秒単位の速さで目の前まで上ってきたサルファに、ヴェインは言葉が続かない。
「この程度だ」
枝にまたがるヴェインの、その先に器用に座って見せたサルファはつんと澄ました表情で、出来の悪い弟を見るように目を細める。
『出来の悪い弟』はそんなサルファに頬を膨らませて見せた。
「ずるいよそれは…」
「ぶつぶつ言っていないで、さっさと取るぞ。ここで眺めていたところで腹は膨れない」
「うん…あ、ねえ、サルファ」
それは事実この上ないことだったから、ヴェインは素直に頷いたのだが、視界を掠めたあるものに気づいてサルファを呼ぶ。
「なんだ?」
「前から聞きたかったんだけど」
「なら後にしろ。飯が先だ」
「いや、今が丁度いいかなぁ、なんて…」
様子を伺うようなヴェインの口調に、サルファは仕方なく振り返った。
結構こんな口調の時のヴェインは、押しが弱くてもなかなか折れないことが多いと気づいていたせいだった。
あと、用件が終るまで、この顔で後ろにくっついていられたら辛気臭い、というのもある。
サルファが振り返ったことに、ヴェインはほっとした表情を浮かべると、視線の先に広がる山の麓を指差した。
「向こうにあるいろいろな色の岩みたいなものって、なに?」
サルファからはヴェインの目線のその風景は見えなかったのだが、指の先と言葉から、彼の言うものがわかった。
秋の、まだ枝に葉が多かった頃は邪魔をされて見えなかったのだが、冬にもなろうかというこの時期は多くの木からそれが落ち、隙間から麓の様子がわかるようになっていた。
「岩じゃない。家だ」
「家…僕とサルファがいるあそこのこと?」
「まあ、同じようなものだ」
「なんであんなにたくさんあるの?」
「街だからだ」
矢継ぎ早にたずねるヴェインの表情が、興味を惹かれたように輝き始めた様子を見ながら、サルファは段々答えるのが億劫になってきた。
…きっと、ヴェインは最後には聞くだろうから。
「街って?」
「…人間が住んでいるところのことだ」
「僕と同じ姿をした人たちのことだよね」
「ああ」
「たくさんいるの?」
「そうだな…街と呼ばれているからには多いのだろう」
「へぇ…」
「…もういいな?いい加減俺は腹が減ったぞ」
ぼんやりと、街を眺めているヴェインに声をかけ、サルファは早々にその話題を切り上げた。我に返ったヴェインは、枝の先にくっついた季節はずれの林檎に手を伸ばす。
「あ!うん。ごめん、すぐ取るから」
結局、その日の食事はそれと、幾つかのしおれた草だった。
もちろんそれで、一人と1匹のお腹が満足に膨れるはずもなく、いつものように水を飲んで眠りに付いた。
「…サルファ」
古びたソファの上に何枚も布を重ねその中に潜り込むようにして、夜の暗闇の中ヴェインが傍で丸くなったサルファを呼ぶ。
「あのさ、今日教えてくれた街のこと、もっと訊いてもいいかな?」
「…」
「サルファは、あそこに行ったことがあるんだよね…どんなところ?」
返答のないことにすこし不安になりながら、ヴェインは話を続ける。
寝床に入ったばかりの今なら、さすがにもう眠ってしまったということはないだろう。
「それで、さ」
いくつか答えの返らないまま話しかけていたヴェインは、少したって何かを切り出そうとするようにわずかに言葉を濁した。
「ねぇ、僕があそこに行ってみたいっていったら…サルファ、付いてきてくれるかな…?」
「…」
「ねぇ、サルファってば」
自分としては、結構決意を固めて言った言葉だったから、さすがのこれにも返事がないことに痺れを切らして、ヴェインはぼふっと掛け布がわりの重い布をうえに持ち上げた。
まるでミノムシの蓑のような丸くふくらんだ寝床をさらにもぐって覗き込む。
「……寝てるの…?」
真っ黒い毛のかたまりが、ヴェインのお腹の辺りに背を向けてくるんと丸まっている。
触ってもピクリとも動かない。
「…もう…」
仕方なさそうに呟いて、ヴェインは『ばふっ』と顔を布から外に出す。
ひやっと頬をなでた夜の空気に、すぐに最初のように布の中にもぐると目を閉じた。
胸が見知らぬ『街』とそこに住むという人間への期待にドキドキと鳴っていて、すぐには眠れそうになかった。
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