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怖い。痛い。怖い。
どこで感じていた痛みかわからない。
けれど、前に感じたのとは別の痛み。
前は、体がふくらんではじけてしまいそうな。
今は、体の内側が締め付けられるような。
痛い。
怖い。
サルファが、いなくなったらと思うと、怖い。
サルファがいなくて、僕の傍にいてくれなくて、
ひとりでなんて、こんな痛みには耐えられない。
…がいてくれレばいい。
よんでくれなくてイイカラ、
ソバニいてくれるダケでいいから
ヒトリにしないデ。
ソうしたらボクハドンナイタミデモタエラレルカラ……。
「ヴェイン!」
サルファの呼びかけに、ヴェインが大きく目を見開く。
まるい瞳孔が夕焼けの始まった淡い紅の光の中で大きくなっている。
ヴェインの指先がサルファに触れた。
「くうっ」とヴェインの喉の奥が鳴る。
それで、サルファは気づいた。
「ヴェイン、こっちだ」
伸ばしたヴェインの手に自ら近寄り、その袖を咥えて引く。
サルファに引かれながら、少しずつ、少しずつ移動して、すぐ傍の細い湧き水の口近くへとたどり着いた。
「サルファ…?」
冷や汗の浮いた額で仰ぎ、訊ねると、サルファは顔をそらして、湧き水のほうへと向ける。
「ゆっくり、水を口に含んで飲むんだ」
「え…」
「ゆっくりだぞ。一気に飲むんじゃない」
「うん…」
促されて、ヴェインは体を投げ出すようにして泉に口をつけると一口だけ含む。
口に入れた瞬間にはひんやりと刺すような冷たさを感じたが、時間をかけて飲むことで、それもほとんど感じなくなる。
喉の奥をゆっくりと水が滑っていったあと、それまでの引き絞るような痛みがすこしだけ和らいだ。
「あ…」
「…おさまったか?」
「すこし…。ありがとう、サルファ」
ぐったりと横になったまま、ヴェインが告げる。
対するサルファは心配しすぎた分、少々呆れ顔だ。
「大丈夫なようなら、もう少し飲んでいてもいい」
「…うん…」
どうやら、サルファが機嫌を損ねている様子だと察して、ヴェインの表情が申し訳なさそうなものに変る。
「…そうならそうと、初めから…」
「え、なにが?」
気づかなかった自分も注意力不足だったと反省しながら、サルファは思わず呟いてしまった。だが、真顔で問い返されて、大きくため息をつく。
「…いや、なんでもない」
それから、先ほど引き止められて行けなかった屋敷に戻るというと、ヴェインはまた泣き出しそうになった。だが、今回ばかりはサルファは動じない。
「また腹が減ったら、そこの水を飲むか、その辺の草をかじっていればいい。…心配しなくてもすぐ戻る」
「…わかっ…た」
不安げな表情のままヴェインが頷いたことを確認すると、サルファはくるりと身を翻して屋敷へと走り出す。
すでにあたりは夕闇が迫っていた。
かちん、と甲高い音が響いて、イゾルデははっと我に返る。
ぼんやりとしたまま、時間を過ごしてしまったらしい。
気が付けば外は夕暮れが近くなり、彼女のいる部屋には窓から紅に染まりつつある空の断片がみえていた。
室内はもうずいぶん薄暗くなり、彼女が座り込んだままの床にも濃い長い影が伸びている。
「もう…戻らないと…」
ああでも、このまま、一晩ここで過ごしてもいい…。
そんな思いが一瞬心を掠めたが、イゾルデは軽く頭を振って、その考えを否定した。
一晩、彼の傍にいたところで、自分の気持ちが整理できるとは思えない。
むしろ出来るなら…彼を、こんなありさまのままにしておきたくない。
そう、ならば、人を呼ばなくては。自分ひとりでは、彼一人の体も支えきれない。
せめて、うつぶせの状態から仰向けに出来ないかとイゾルデは一度試みてはみたのだが、やせ細ったとはいえ力の抜けた男の体は予想以上に重く、半身も動かせなかった。
髪だけを手で梳き整えた彼に向かって、イゾルデは小さく呟くとゆっくりと立ち上がる。
扉を閉じる時、急に胸が締め付けられるように感じたが、あえて感じていない振りをした。
誰に対してではない、自分に向かって。
(…結局…私は…なにもあなたに…)
イゾルデが屋敷の立つ森を出て、麓の街にたどり着いたのは夜も更けてからだった。
たびたび街を訪れていた彼女を覚えている宿の主人は、夜遅く帰ってきた彼女の顔色を見て、慌てた様子で帳場から出てきた。
「ちょっとあんた、顔真っ青だぞ」
「心配ありません。大丈夫です」
「だけどなぁ…なんかあったのかい?あんた、あの山のほうに用があったんだろう?あの山の奥には何年か前から変な男が住み着いてて、最近じゃあ皆気味悪がってちかづきゃしないんだよ。前から心配だったんだが、案の定そんな顔で戻ってこられたら…」
「違います…!」
親切心を装いながら伸びてきた主人の手をぱしりと振り払い、イゾルデは相手の顔をにらむ。
そして思わず鼻白んだ主人に向かって、すっと表情を改めると、「頼みたいことがあります」と告げた。
明日の朝、数人の街の男性を借りたいこと。
理由は、山奥に住む知り合いが亡くなっていたため、その体を棺に納めて埋葬するため。
そうイゾルデが話したとたん、宿の主人の呼びかけに集まっていた男たちはとたんに文句を言い始めた。
「冗談じゃない。なんでそんなよそ者のために人手をかさなきゃならん」
「埋葬ったって、どこに埋める気だ?まさかここの墓地じゃないだろうな。そんなどこのものともしれないモンを入れたら、他のやつらも黙ってないぞ」
「そんな…彼は…!」
「錬金術だかなんだか知らないが、そんな似非占い師みたいなことをしてるようなヤツがまっとうな人間だとは思えないね」
さっと、血の気が引く音をイゾルデは聞いた。
錬金術の名が知られた大きな街ならば、考えられない言葉だった。
ましてや、彼の、『テオフラトゥス』の名を、知らないものはいないほどなのに…。
ぎゅっと、机の上で手がこぶしを作る。
震えそうになる唇を噛み締めながら、ゆっくりと頭を垂れる。
「…お願い、します…」
頭を下げ、長い髪が、顔の両脇で半円を描くように机の上に広がるのを、じっと見つめる。
だが、周囲の反応は冷ややかだった。
そしてイゾルデが宿の自分の部屋に戻ったのは、真夜中をとうに過ぎた時刻だった。
扉を閉め、部屋の中に一人きりになったとたん、そのまま扉に背を預けたまま、ずるずると崩れ落ちる。
自分の体も支えきれないほどの、疲労感がイゾルデを襲う。
熱っぽい額に手の甲を押し付け、イゾルデは天井を仰いだ。
テオフラトゥスについては…なんとか、話をつけることが出来た。
人手を貸すのは、彼の屋敷から、麓まで。
埋葬場所も、街の墓地ではなく、町外れの誰とも知れない人々が眠る場所をあてがわれた。
だが、埋葬には人はこない。イゾルデだけだ。
それでも、今の状態ではその譲歩まで取り付けるのが精一杯だった。
「…はぁ…」
深い、ため息が彼女の口からこぼれる。
「…恨めしいわ…」
もともと、錬金術について無知な…彼の名も知らない人々ばかりのこの地を選んだのはテオフラトゥスだ。
だから、こんなことで、イゾルデが苦労する羽目になる。
最後の、最後まで。
「……」
手を額に当てたままイゾルデは唇を閉ざす。
その頬を細く透明な雫が伝った。
わずかだったが、それが彼と、彼女自身のために流した、最初で最後の涙だった。
夜の暗闇の中、屋敷にたどり着くと、サルファは2階を見上げた。
もう明かりの灯ることのない場所を、こうして見上げることにもずいぶん慣れた気がする。
そこは、まるで沈むことのない月のように、常に明かりを灯していた。
サルファはするすると建物の端を伝いながら、その部屋の窓の外に近づいた。
一番端の窓ガラスの下の部分が割れている。
ずいぶん長い間放置されて散らばったままのガラスは縁に埃が張り付き、注意すれば通れないこともない。
その実、彼の存在を忘れることが多かった飼い主の下に行くのに、よく利用していた。
今はそれがありがたい。
割れた隙間から中に入ると、すこし考えて、サルファは窓の縁に残っていた大きな破片を前足で押す。
ぱりんという音を立てて、ガラスが屋根の下に落ちていった。
首を伸ばして外をうかがい、それを確認すると、サルファは目指す棚に歩み寄り、跳躍する。
2段目は前足を先に乗せ、体を持ち上げるようにして身を乗り出し、片方の前足で棚の扉を引っかく。
カリカリと長い音が続き、しばらくして扉が開いた。
鼻先を突っ込み、匂いでそれを判別すると、サルファは小瓶のふたの部分を飲み込むようにしてくわえた。
そのまま体を反転させ、床に下りる。
視界の端に、かつての…飼い主の姿が入った。
「……」
サルファは、外に出ようとした足を止めて、一度だけ振り返った。
闇の中に浮かぶ、彼の目だからわかる姿を見る。
なぜ振り返ったのか、サルファ自身もわからないまま、再び外へと向き直ると、最初の窓から部屋を出て行った。
時折休憩を挟みながら、サルファはヴェインのもとに急ぐ。
ヴェインは最初の、サルファと別れた時のままで、泉で待っていた。
サルファ、と呼ぶ声はすこし潤んでいる。
ヴェインが頭を預けている草のそばに咥えていた小瓶を置くと、サルファはその顔を見下ろした。
「馬鹿が。泣くほどのことか」
「だって、サルファがいないから…」
サルファの態度にすこし拗ねたような口調で答えながら、ヴェインは目の前に置かれた瓶に目を丸くした。
「これ、なに?」
丸い、ふくらんだ花の蕾のような形の瓶の形をしているそれは、瓶の中に封じられた淡く発光する液体のせいで、夜の闇に慣れたヴェインの目にも、はっきりと見えていた。
サルファが瓶の縁を前足でころん、と転がす。
転がった瓶がヴェインの頬に触れる。
視界の下四半分が、淡い光に包まれた萌黄色になった。
「クスリだ。創ったのはろくでもない奴だったが、これの中身は俺が保障する」
「そう、なんだ」
『薬』ってなにをするもの?そう聞きそうになったのだが、サルファが促してくる様子から口に入れるものなのだろうとヴェインは素直に手を伸ばした。
横になったままの体勢ではあまり口に出来なかったが、中身がなくなるまで飲む。
ぱったりと腕を下ろしたヴェインの手から転がった瓶の口を覗き込んで、空になっていることを確認すると、サルファは少年を振り返った。
「どうだ?治ったか?」
「ん…わかんない…けど、もう痛くないよ」
「そうか」
サルファの記憶では飲んですぐに効果があったように感じていたのだが…痛くないということだから、大丈夫だろうか。
「動けるか?」
「…」
その言葉にヴェインは申し訳なさそうな顔をする。
さすがにそこまではよくなっていないらしい。
仕方なく、サルファはヴェインの傍に座った。
体の側面がぴったりとヴェインに触れ合うようにする。
「ふわふわだ…」
小さな声が耳のすぐ傍で聞こえた。
サルファは気にすることなく、目を閉じる。
頭上の木の間からわずかに見える夜空には星が光っているし、ひげも気分が悪くないから雨の心配はないだろう。
気にかかる点は、森の獣と夜の冷え込みだったのだが、それについてはサルファ自身で何とかするしかない。
そんなことを考えているサルファの傍で、ヴェインはうつらうつらしながら体をサルファのほうへ摺り寄せる。
触れてはいないけれど、目を閉じた顎のすぐ間近に柔らかいものがある気配を感じた。
そうして、あることを思い出した。
「…あれ、サルファだったんだ」
「ん?」
「目を閉じてた時、ときどき手が温かくなったから」
「…ああ…」
ふわり、とヴェインの腕が伸びて、サルファを抱きかかえる。
「おい!何をする」
誰かに触られるだけならまだしも、抱きかかえられるのはサルファにはごめんだった。
自分の意思ではなく体の自由がきかなくなるのは、嫌いだ。
たとえ、今自分自身が動く気がないとしてもだ。
抜け出そうとして腕を突っ張ったところで、腹の辺りに頬をうずめられた。
「やっぱり、あったかいや」
ぼんやりと呟くヴェインの声は眠そうで、サルファの声に答えていない。
「ヴェイン…」
…どうも、コイツといると調子が狂う。
抱きかかえたまま、目を閉じてここちよさそうに眠り込んでしまったヴェインに、サルファはふうと息を吐いた。
その場にうつぶせになり、ヴェインのなすがままに身を預ける。
ちらりと視線を斜め後ろに向ければ、ふわふわの髪の一部が自分の黒い毛の中に混ざって、まだらになっている。
「……」
出会ったときから、人ではないのだろうと思っていたが、それにしては疑問が残る。
姿かたちは、すくなくとも人間だ。
物は知らないが、ひとを勝手に抱えようとするあたりも、人間特有のものだ。
食べ物を摂取することに気づいていなかったことは、気づかなかった自分もどうかと思うが…それを必要とする以上は同じ生き物だということになるのか。
だが、あの妙な力は、人間は持たないものだということもわかっている。
サルファの…猫の言葉を『正確に』理解している点も。
「…アレがなければ、こいつは普通の人間と変らないということか…」
どちらがいいのだろう。
ヒトとして生きるのか、それとも、彼の望んだマナとして生きるのか。
「…考えても仕方がないが」
どちらにしろ、それはヴェインが決めるだろう。決めるべきことだ。
離そうとしないヴェインの腕の中で、サルファがもぞもぞと眠りやすいように体を動かすと、きゅっとその手に力がこもる。
「…サルファ…」
呟きはすぐに消えた。
やれやれ、といったようにサルファはひげを頬に引き寄せると、ヴェインの腕に身をもたせかけた。
「まあ、付き合ってやるさ」
ここ数日の、誰かの傍で眠るというのはずいぶん久し振りで、サルファにとっては懐かしい。
暖かい人の体温に包まれて眠ることが心地よいものだと、数年ぶりに思い出していた。
ぱしゃんと水が跳ねる。
その飛沫はひんやりとしていて、ヴェインはプルプルと顔を振って残っていた雫を払い落とした。
「もういいか?」
「うん」
昨日の様子がまるで嘘のように、体が軽くなっていた。
水を飲み終わるのを待っていたサルファに答えて、ヴェインは向き直る。
それを見て、サルファが歩き出した。
昨日と同じに、ヴェインがそのあとを追いかける。
「今日はどこにいくの?」
「一度、屋敷に戻る」
最初に会った場所だ。そうサルファが言い添えると、ヴェインは頷いた。
昨夜、部屋の中に入った時、わずかにサルファが感じた違和感。
それを確かめておきたかった。
だが。
しばらく歩いて、もう少しで屋敷につながる小道に出るというところで、サルファは立ち止まった。
「サルファ?」
突然立ち止まったサルファに、ヴェインが声を掛ける。
「どうしたの?」
再度訊ねても、目の前の黒猫はすぐには答えようとしない。
ぴんっと前を向いた耳が、ピクリと動いた。
「…静かにしろ」
「…え…あ、ごめん…って、サルファ!?」
短く返された鋭い声に、ヴェインが身をすくませる。
だが、次の瞬間、それまで目指していた方向とは真逆の方向にきびすを返したサルファに、目を丸くした。
「サルファ、こっちに行くんじゃないの?」
「気が変った」
「え、でも…」
明らかにそれまでと異なる低い声に、ヴェインがどうしていいのかわからない様子で、おずおずと尋ねる。だが、サルファの返答は短く、逆らえない響きがあった。
「戻るぞ」
「あ、まって!」
容赦なく歩いて行くサルファに、ヴェインは慌てて後を追う。
これまでも、何度か繰り返された光景。
しかし、その途中、ヴェインは背後を振り返った。
木々の間を動く、幾つもの、影。
それはかたまりになって、それまでサルファと向かおうとしていた方向に進んで行く。
「…あれ…」
アレは…なんだろう。
見た瞬間に、いや、その気配を感じた瞬間に、ざわりと胸の奥が騒いだ。
なんだろう。
「ヴェイン」
はっと、我に返ったヴェインが振り向くと、サルファが立ち止まってこちらを見ている。
明らかに何か焦った様子なのだが、その理由はヴェインには見当が付かなかった。
だから、呼ばれるままに、彼の後を急いで追った。
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