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「それにしても、そんななりでお前は寒くないのか?」
自分の名を呟いた後妙に静かになってしまったヴェインを放って、身づくろいを終えたサルファは、いまだに動こうとしない彼を呆れたように見上げた。
「え…今はあんまり…」
サルファの問いかけにそう答えかけて、くしゅんっとヴェインはくしゃみをした。
その瞬間、ざわっと体を撫でた朝の白い霧に、体を震わせる。
それが呼び水となり、続けて何度かくしゃみを繰り返したヴェインを見ていたサルファは、するりと立ち上がった。
「サルファ?」
「…付いて来い」
ヴェインの傍をすり抜けて先ほど彼が出てきた建物の中に入っていく。
「待って…」
サルファの傍を離れることを怖がるように、ヴェインは慌ててその後を追った。
「サルファ」
暗い建物の中で、一瞬、黒い毛皮の姿を見失う。
だが影の中に浮かぶ白い色に導かれて、すぐにその姿を見つけられた。
「こっちだ」
ぎしぎしと軋む音が響く今にも割れて落ちてしまいそうな板の階段を登り、踊り場のむこうにある扉の、わずかに開いた隙間にサルファが顔を突っ込む。
その肩が扉を抜ける間際にヴェインが手を添え、扉を大きく開けた。
入って左の廊下に進み、ひとつの扉の前に座ると、サルファはぴたりと片方の前足でそれを押さえた。
「…ここだ」
後ろを付いてきていたヴェインを見上げてサルファが告げる。
「…あけるの?」
「ああ」
扉を開けると、ふわり、とカビっぽい匂いが鼻に付いた。
それが何の匂いかわかっていないヴェインは、無意識に鼻を押さえる。
「…変なにおい…」
「まだお前はいいほうだ」
「そう、なの?」
嫌そうに顔をしかめたサルファとともに中に入ると、ヴェインは部屋を見渡した。
扉に向かいあう形の壁には大きな窓が3つ。
その隣の壁には、天井近くまで本を納めた棚があり、対面には隣の部屋に続く扉がある。ソファとテーブルの向こうで、半端に開いたそれの隙間から、少しだけ中が見えた。
「…それで、サルファは、何をしようとしてるの?」
「ん?…お前の服を探しているんだろう」
「服?」
「ニンゲンはやっかいな生き物だからな。俺のように毛皮があるわけじゃない。服を着ておかないと、怪我したり病気になったり面倒だ」
「へぇ…」
そう言われてもぴんとこないヴェインは、サルファの黒いふわふわの毛皮と、自分のむき出しの肌を交互に眺める。
「服って、サルファみたいにふわふわしてるの?」
「いいや…似たようなものはあるが、ここらじゃ見かけない…ちょっと、まってろ」
きょろきょろと部屋の中を歩き回り始めたヴェインに言いながら、サルファは隣の部屋に行き、布があふれた衣装棚に体を滑り込ませた。
はみ出していた布の端をくわえ、ずるずると後ずさりしながらそれを引き出す。
途中まで引き出したところで、部屋に引き返し、サルファはその先の光景に、目を丸くした。
「…ヴェイン」
「服って、これでいいのかな?」
先ほどまで何も身につけていなかったのに、今はなんとも奇妙な服を着て、ヴェインはサルファのほうを向いていた。
中途半端な丈の長衣に、その端とぴったりの長さのズボン。
前身ごろはどこか見慣れた意匠の服なのだが、背中はただののっぺりした布が体に張り付いているだけだった。
「なんだか、すごく動きづらい…けど」
そう言う彼の手の中に、絵をはめ込んだ小さな額があることに気づいて、サルファは奇妙さを納得する。
それを目にするのは2度目だったが、サルファにはおぼろげにヴェインの能力がわかりかけていた。
「もっと楽なものがこっちにある」
言いながらサルファはヴェインに手伝わせ、先ほどの布を引っ張り出させる。
シャツと、ズボン。
ずっと使われていなかった、うっすらと埃をかぶった靴も探して、ヴェインに言って取り出させた。
その後、服の着方をヴェインに説明し、上から下まで一揃い…なおかつ靴まで履かせたところで、サルファはすっかり疲れてしまった。
ここ数年ほとんどの時間を一匹で過ごし、誰かの面倒をみるなど、ずっとしていなかったせいかもしれない。
…一時期は飼い主が心配で、話しかけたりもしていたが、まるで見当違いな解釈をされることが多かった。
カビの匂いのせいで馬鹿になった鼻を鳴らしつつ、ものめずらしそうに自分のシャツを眺めているヴェインに、目を向ける。ふと、その目があった。
「どう…かな?サルファ」
「どうって?」
「いや…えーと…これ」
言いながらヴェインは自分を…自分が着ている服を指差す。
白いシャツに、灰色のズボン。サイズが大きい黒の靴。
「まあ、そんなものじゃないか」
あくびをまじえつつ…疲れているせいでかなり投げやりなサルファの態度だったが、ヴェインはそれでも納得したらしい。
ふんわりと微笑んだヴェインに、サルファが首をかしげる。
「…ちょっと、嬉しかったから」
「そうか」
「うん」
おかしなヤツだ。
「サルファ?」
布の上にしゃがみこんでいたサルファが起きだして、部屋を出て行こうする。
それに気づいて、ヴェインが足元を通り過ぎたサルファを振り返った。
「どこにいくの?」
「外だ」
「待って…僕も…」
サルファの後を追うヴェインの足元で、がぽっがぽっと靴が音を立てる。
「歩きづらい…」という泣き言がサルファの背後で呟かれ、途中、その言葉の通りヴェインは階段の踊り場と、玄関前で靴を引っ掛けて盛大に転んだ。
ヴェインがサルファのあとについて屋敷を離れた後、しばらくして一人の女性がその扉の前に立った。
ためらうように扉を開け、それまで幾度か繰り返したように、家人の名を呼ぶ。
「…また、なのかしら。それとも…」
呟きが部屋の中に響く。
いくら待っても、今日は彼の飼い猫であるサルファも姿を見せない。
彼女…イゾルデは、仕方なく一人で屋敷の中に入った。
彼がいつもいる2階へとあがる。
イゾルデの足どりは重かったが、それは、この屋敷に来るまでの道のりに疲れたためだけではない。
以前…最後に訪れた時の彼の様子が引っかかっていた。
あの後も。
イゾルデは何も出来ずに立ちすくんだまま、作業を続ける彼の姿を見ていることしか出来なかった。
『ヴェイン』と、彼が愛しげに呼ぶ人工生命は、自我こそない様子なものの、テオフラトゥスが近づくとその目をゆっくりと開く。
彼と同じ赤い髪に、琥珀の目。顔立ちもどこか似ていたその子供が、すでに実験段階を終えつつあることは、イゾルデの目からもわかった。
…テオフラトゥスは、何人たりとも到達できなかった人工生命の創造に成功した…正確にはしつつあった。
それだけであるならば、いいのに。
彼の目的が、人工生命…人工マナを『創り出すこと』であればいい。歪んでしまった自分の心を癒すためのものであるならいい…けれど…。
あの姿からは、彼の望みが別のものであることを感じずにはいられなかった。
別のもの…。
一度、こみ上げてきた吐き気に似たものを抑えるため、水を飲みに1階へ下りて、イゾルデは台所の机に置かれたものに愕然とした。
その前の訪れのとき彼のために持ってきていた食料がすべて手付かずで、腐敗していたからだった。
ろくに眠りもせず、食事にも手を付けず、己の体を傷つけても省みようとしない。
それは、自ら死に急ぐようなものだ。
「テオフラトゥス…あなたはまさか…」
約半年前、心の中に浮かんだ思いが、再びイゾルデの口からこぼれた。
同時に足元でギシっと甲高い音が響き、イゾルデは意識を過去から現在へと引き戻された。
2階の廊下につながる扉の前でたたずんでいた彼女は、その瞬間びくっと体を震わせる。
「…」
気を取り直して、イゾルデは扉に触れる。
その扉の取っ手は、前に訪れた時よりも重く感じた。
そして、いつもテオフラトゥスがいた部屋を訪れて…彼女は知った。
「…テオフラトゥス?」
異変は、その部屋に入る前から漠然と感じていた。
静か過ぎる。
とても、誰かがいるような、そんな気配はない。
低くまるで唸り声のような、装置の音も止んでいた。
部屋を見渡しても、目に入るのは、調合台や背の高い装置類、薬品棚などだ。
しゃがみこんでいるのでなければ、彼の姿は見えるはずなのに。
「……」
そう、考えながら、イゾルデの視線は徐々に一点に集中した。
割れていた。…以前、彼の『子供』がいた装置の、筒状のガラスが。
そしてイゾルデの視線はその破片が散らばる床に落とされ、そこに見慣れた色の靴とズボンを見つけた。…正確には、それを身につけた…。
「…っ!」
悲鳴は、でなかった。
そのまま崩れ落ちそうになるのを必死で堪えて、イゾルデはゆっくりと近づく。
調合台の陰に隠れて、見えなかった彼の姿が、徐々に見えてくる。
両手を投げ出すようにして、うつぶせに倒れている。
ざんばらの赤い髪が床に広がり、一瞬血のようだと錯覚しかけた。
「テオ…」
倒れている男の身を起しかけて、その顔に安堵するような笑みが浮かんでいるように見えたイゾルデは、その手を止めた。
それまでなんとか支えていた体の力が、一気に抜ける。
目が熱くなる。
おかしくもないのに、自分の顔に笑みが浮かぶのを感じた。
なにも、おかしいことなどないのに…。
「まさか、あなたのこんな姿を見ることになるなんてね」
呟いて、気づいた。
ああ、おかしいと思ったのは、彼の姿を見たせいだったのか。
イゾルデの考えなど、かるく凌駕してしまう彼だったから、…死んでしまうのではないかという、バカな考えを一蹴してしまうかと、自分は思っていたのか。
あるいは、…研究の完成を待たないまま、死んでしまうなど、彼らしくないと思ったせいだろうか。
研究…。
ふと思い浮かんだその単語に、イゾルデは視線を彼に落とした。
彼の研究は、完成していたのだろうか?
「猫と、あなたの子供の姿が見えないわね…」
床に散らばるガラスが、イゾルデの手の下で触れ合い、澄んだ音を立てる。
「…どこに行ったの?」
そうたずねても、イゾルデの前に横たわる男は、静かな笑みを浮かべているばかりで。
彼女は口元を薄く笑みの形にしたまま、ゆっくりと目を伏せた。
「待って…サルファ」
はあっはあっと荒い息をつきながら、ヴェインが声を上げる。
もう何度目になるかわからないその声に、ヴェインの先を歩いていたサルファは立ち止まった。
紅葉の色の濃い、森の奥。
屋敷のまわりはほとんどが常緑樹で、そこから離れた場所にある広葉樹の森は、緑の森しか見たことのないヴェインにとって、目も覚めるような色彩の宝庫だった。
サルファのあとを追いかけながら、ヴェインはあれやこれやと彼に質問を投げかけていた。
最初こそ律儀に答えていたサルファだったが、それに際限がないことに気づくと、とたんに億劫そうになった。ただ…答えはしていたが。
サルファが振り返って待ってくれていることに気づくと、ヴェインは嬉しそうに顔をほころばせ、歩きづらい靴で急いで追いつこうとする。
が。
「あ!」
「…」
わずかにせり出した木の根に引っかかり、ばったりと、受身も取れないまま倒れこんだ。
本日3回目の見事なこけっぷりに、サルファは無言のままその様を見つめていた。
学習能力はないのかと言いたげな視線でもあるのだが、幸いなことにヴェインは気づかない。
「…痛い…」
「まあ、あれだけ盛大に転べばな。体も痛くなるだろう」
「うん…」
起き上がり、打ったらしい腹の辺りを撫でつつヴェインはサルファに近づく。
「…痛いのなら、その辺で休んでいればいいだろう?」
「え…でも…その間、サルファはどこにいるの?」
「俺は見回りがあるからな。もうしばらく向こうに行くつもりだ」
「じゃあ、僕も行くよ」
「別に、無理をして付いてこなくてもいいんだぞ」
「…」
サルファにしてみれば、気を使って言ってやったつもりだったのだが、ヴェインはその言葉に急に表情を曇らせた。
まるで、母親を見失って、途方にくれている…仔猫だ。
なりは人間の大人に近いのに。
「…。好きにしたらいい」
仕方なくサルファがそう言い直すと、ヴェインの表情が明るくなる。
「うん、ありがとう」
その言葉には答えず、尻尾をぶんっと一振りすると、サルファは再び歩き出す。
ヴェインも、今度はぴったりと寄り添うように歩き出した。
秋が深まり始めたばかりの季節であることから、森にはさまざまな木の実や、草の実が生えている。
サルファの立ち寄る場所にはそんな草の実のある水場や、木の生えた高い岩べりなどもあり、それまで屋敷の外に出たことのなかったヴェインにとっては、身軽な彼に追いついていくだけで精一杯だった。
「…はあ…はあ…」
「ヴェイン?」
木の根に足を取られてからしばらく歩いても、様子がよくならないヴェインにサルファが振り返った。
最初の頃は隣にいたのに、いつの間にはまたサルファの後ろに戻っている。
「え?」とたずね返すヴェインの顔色は悪く、足元もふらついている。
「具合が悪いのか?」
「うん…さっき転んだから、ここが…」
言いながら立ち止まると、ヴェインは腹をおさえる。
サルファは目を眇めた。
そんなはずはない。ただ足を引っ掛けて転んだだけの痛みが、ここまで長引くのはおかしい。違うものとはいえ、サルファでもその程度の区別はつく。
「腹だけか?」
「えっと…あとすこしだけサルファがぼやけてみえる。…立ち止まっていても、くるくる体が回ってるみたい…」
ヴェインは言いながら、その場にしゃがみこんでしまった。
「ごめん…」
そのまま、息を吐くように言葉をつむぎ、
「ちょっと…つらい…」
ぱったりと倒れこむ。
それに焦ったのはサルファだった。
「おい、ヴェイン!」
「ん…」
反応が鈍い。
「…」
先ほどまでなんともなかったのに、この変り様は何だというのだろう。
ふとサルファが気づいたのは、屋敷の中での出来事だった。
あの妙な力を使ったせいなのか。
それとも別の理由があるのか。
なんであるにせよ、今サルファの目の前で、ヴェインが苦しんでいることが事実だった。
こんな時に、人間がいればいいのに。
普段はこんなことをサルファは考えたりしない。
サルファにとって、人間は頼る存在ではない。
だが…。
最期を看取ったはずの、あの男の顔が一瞬よぎった。
ろくでもない飼い主だったが、アイツでもいい。
少なくとも、何か痛みを取る…。
そう思いかけて、サルファの脳裏にある物が浮かんだ。
昔、本当に子猫か、青年猫だったころだ。
飼い主がこんな状態になった人間たちに渡していた薬を知っていた。
それとは別に…物は試しだと、何も知らないうちにアイツに飲まされたこともある。
その当時は、手のひらの痛みが消えて、体にまとわり付いていた気持ち悪い熱がなくなったことを憶えている。…今なら屋敷のあの部屋にあるだろう。
そのまま、屋敷へときびすを返しかけたサルファに、小さな声がかかった。
「まって、サルファ」
振り返った先に、ヴェインが目をあけて見つめていた。
「置いて、いかないで」
横たわったまま手を伸ばして、離れてしまったサルファににじり寄ろうとする。
だが、気持ちが悪いのだろう、目を苦しげに細めて、唇を噛み締めた。
「…。お前の具合がよくなるものを、取ってくるだけだ」
その言葉にヴェインはふるふると首を振る。
「…少しの間だけだ」
また、横に振る。
「そんなの、いい」
「ヴェイン」
「傍にいてよ、サルファ…」
必死で、目を潤ませながら懇願するヴェインに、サルファは動きを止めた。
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