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蒼暗い森の奥、誰も踏み入れないようなその場所に、一軒の家があった。
まるで周囲の暗がりに溶け込むような、ぼんやりとした灰色の岩壁に、ガラスをはめ込んだ窓が並ぶ。
しかし、薄いガラスはそれだけで高価なものだが、埃にまみれてところどころ割れたまま放置されているため、建物は一見廃墟のようにも見えた。
だが、二階の大きくガラスが割れた窓の奥にゆらゆらとゆれる影が時折映る。
赤と、白。それに通常の灯りに使う暖かな橙色のものとは違う、淡い青白い光。
しばらくすると、一匹の黒猫が建物の前に座り、その窓をじっと見上げていた。
そこはまるで無音の世界。
温かい液体に包まれていた体が、大気に触れひんやりと冷えていく。
同時に自分の胸の鼓動の音が遠くなって、少年の姿をした『それ』はふと心細さを感じていた。
けれどそれもわずかの間のことで、目の前の人物に触れられて、不安な気持ちは瞬く間に消えていく。
嬉しい。
体は冷えてゆくのに、胸の中心がふんわりと暖かくなったように感じる。
「ようやく…ようやく生まれた…」
がさがさに乾いた、痩せて骨ばった大きな手が、『それ』の濡れた頬を慈しむようになでる。
「私の…私の願いを叶えてくれるもの…」
男の手に繰り返しなでられながら、『それ』は初めて聞いた声を心地よく感じていた。
緩やかに見開かれた淡い蒼の目に覗き込む男の姿が映る。
不精で伸ばしただけの不揃いの赤毛の間で、血走った琥珀色の目が細められている。
まるで病人のようにこけた頬にはひげが伸び、口元に張り付いた笑みだけが目に付いた。
「…わかるだろう?私の願いが…」
じっと見つめるそれに、男の声がさらに熱を帯びる。
「…わかるだろう?私の望みが…」
言いながら頬をなでていた男の手はずらされ、反応の薄い『それ』の肩を、色が変るほど強く掴んでいた。それが普通の人間ならば「痛い」と悲鳴を上げてもよさそうなものなのだが、『それ』はただ目を丸く見開いただけだった。
「…さあ!!」
大きく揺さぶられ、びくんっとその体が震える。
しかしそれは怯えではなく、反射的な動きだった。
その証拠に『それ』は男の顔から視線をそらすことなく頷く。
ゆっくりとしたその動きは緩慢で、まるで人形が動いたような、ぎこちないものだった。
それも当然なのかもしれない。一時前までは『それ』はエーテル液のなかにたゆたう存在だったのだから。
エーテルの滴る両手をゆっくりと差し伸べ、『それ』は男の仕草を真似たように、無精ひげの伸びるその顔に触れる。
ようやく訪れる、焦がれてやまなかった瞬間に、男の笑みは安堵するようなものに変わり、それまでのものよりも深くなる。
痛々しいほど充血して真っ赤になった目を覆い隠すように、『それ』の両手が男の目から額までを隠した。
時間を置くことなく、ぴくりと、触れたままだった男の手がわずかに震え、その後だらりと肩から滑る。
表情無く見つめる『それ』に覆いかぶさるように倒れ、そのままずるずると体を伝うように床に崩れ落ちた。
…男が生きたものではなくなった瞬間、『それ』はふと不思議そうに目を見開いていた。
彼の行動が『それ』にとって思いもしなかったものであるかのように。
そしてわずかな間、床に倒れた男の姿を見下ろし…、戸惑うように辺りを見回したあと、ゆっくりと部屋を出て行った。
『それ』が部屋を出て行ってしばらくしたあと。
もう物音ひとつたたないと思われたその部屋の中で、わずかに空気が動いた。
まるで部屋の暗がりに溶け込むような黒い毛皮の猫が、静かに部屋の隅から姿を見せると、濡れた床を避けるようにして、音も無く男の傍らへ近づく。
うつぶせに倒れ投げ出された彼の掌へそっと鼻を近づけ、そのままふわり、と尻尾を一振りすると、窓のほうへ歩み寄り割れたガラスの合間から外に出る。
…そしてそこには、死んだ男だけが残された。
歩くたびに濡れた足が床に足跡を残していることに『それ』が気づいたのは、しばらくしてからだった。
…だがそれもしばらくすれば乾き、気がつけばいつの間にかどこかに消えてしまう。
「…だれも、いない…」
最初の部屋を出て、幾つもの部屋を歩いて回ったが、『それ』が求めるものはどこにもいなかった。
「…つかれた…」
言いながらぺたりと廊下の床に座り込んでしまう。
長い廊下の片隅で、壁に寄りかかりながら、目の前の床をぼんやりと眺める。
肌に触れる石の壁はどこまでも冷たくて、『それ』は長い手足を不器用そうに折り曲げ、きゅっと自分で自分を抱きしめようとする。
まだ濡れたままの髪は冷たくて、日のあたらない廊下はひんやりと寒くて。
「…さむい…」
呟くと、胸の奥が苦しくなる。
…僕をよんでくれたヒトはどこにいってしまったんだろう。
つい先ほどまで、傍にいてくれた者のことをぼんやりと思い出す。
触れられた手が、あったかくて、気持ちよかった。
願いを、と言われたから…そのヒトの願いを叶えた。
なのに…。
「…さむいよ…」
どうして、どこにもいないの?
どうして、…だれもいないの?
それからの記憶は、すこしあいまいだった。
廊下は暗くて、時間の経過もはっきりとしない。
だから、目覚めたのがいつなのか、そして眠った時間がどれほどだったのか、『それ』にはわからなかった。
床から体を起し、両腕を撫でる。
「…やわらかい…」
そうしてこんどは床に掌を押し付けた。
だが期待したものではなかったのが、『それ』の表情が曇る。
表情を変えないまま、何度も手の甲から肘の間を撫でさする。
しばらく繰り返していたが、不意にその行動を止めると、ゆっくりと立ち上がった。
視線は、彼の背後にある扉に向けられていた。
「だれか…いるの…?」
前に目を開けていたとき、ずっと探して回ってもだれも見つけられなかった。
でも、もしかしたら…もう一度、探したら…。
確かめるには、廊下から続く幾つかの部屋をのぞいてみればいいだろうか。
それとも、動かないほうがいいのだろうか。
もし、あのヒトがいるのなら、動かないほうが見つけてもらえるだろうか。
「あ…」
そう思いながら『それ』が振り返った先。
長い廊下が続くその中ほどの床に、細く線が引かれていた。
急角度で、長く伸びた黄色い線。
前は、こんなものは無かった。
吸い寄せられるように近づくと、その線の端が、ある扉の隙間につながっていることがわかった。
迷わず、扉に手を掛ける。
その先は踊り場付の木製の階段になっていて、下の階へと続いていた。
もしかしたら、という期待が『それ』の胸をよぎる。
この先にいてくれるのだろうか。
誰かが。
あのヒトが。
それなら見知らぬものも、知らない場所も怖くは無い。
どこからか差し込んで床にこぼれた日の光はきらきらと輝いて、暗さに慣れていた『それ』は眩しそうに目を細めた。
そして慎重に、階段を一歩踏み出す。
裸足の下で小さく板が軋んだが、『それ』は気づかなかった。
前のときと違って、今度はしばらく歩き回っても疲れて動けなくなるほどではなかった。
だが、
「…どうして…」
ぽたぽたと涙を零しながら『それ』は途方にくれたように部屋の真ん中でじっと佇んでいた。
きっといてくれると思っていた。
そう期待していた。
だから、部屋中を探して、探し回って、結局、最初に探した場所と同じように、誰もいないことがわかって…心細くなってしまった。
「…う…ふぅ…っ…」
ぬぐってもぬぐっても、涙はあふれてくる。
姿形は少年であるのに、『それ』はまるで、もっと幼い子供のような仕草で、ごしごしと乱暴に目元を拳で擦っている。
「…ふ…っ……」
口を開きかけて、そしてまた新たなことに気づいて、『それ』は表情をゆがめる。
あのヒトを、呼ぼうとした。
『それ』のしるヒトは、あのヒトだけだったから。
でも、知らなかった。
あのヒトの名前を。
…知らなければ、呼べない。
また新たな涙が『それ』の頬を伝う。
『それ』は、独りなのだと、そう悟った瞬間だった。
それから、『それ』は、最初に眠った廊下に戻った。
ぱたんと、力なく体を床に横たえ、目を閉じる。
寒い、と感じていたのが嘘のようだ。
不思議と、もうなんとも感じなかった。
涙は乾いて、頬のあたりがひきつる感覚があったが、それも無視する。
もう、ここには誰もいないと、わかっている。
でも、眠っている間なら…。
目が覚めたときに腕に感じた違和感は、心地よいものだった。
まるで、あの中にいた時のように。
まるで、あのヒトに触れてもらったときのように。
起きているから、わからないのかもしれない。
だから、眠ってみる。
同じ場所で。同じ体勢で。
そして、眠るたびにたしかにその違和感は、『それ』に訪れるのだと知った。
『違和感』の正体は、何度目かの目覚めのあと、知ることになる。
柔らかい感触が体から離れていくのを感じて、『それ』は目を開けた。
目を開けなければ、その感触はしばらく体に残るのに、急に離れたことに驚いて目を開けてしまったのだ。
そして、次の瞬間に廊下に響いた音に顔を上げた。
あの階段に続く扉が少しだけ開いている。
それまでずっと、いつも目を開けたときは同じように開いていたから、気にならないはずだった。
でも、今はそうは思えなかった。
いつもは静かに沈んでいる建物の空気が動いている。
建物の中を初めて歩き回った時には薄れていた感覚が今は戻ってきていて、『それ』は空気の流れや、建物の外の日の感触も朧に感じ取れるようになっていた。
その感覚が、いつもと違うものを知らせている。
扉を開け、階段を下り、『それ』は隙間の開いた扉をもうひとつ見つける。
木の茂る森につながる扉だと、わかっていた。
朝早いのか、隙間から差し込んでいる光は白を帯びて、空気は湿っていた。
青い草の茂る、すこしひらけた場所。
申し訳程度に整えられていた建物から森へと続く小道は、長い間手入れをされていないらしく、すでに草が生えている。
『それ』が外に出ると、その道の真ん中に座っていた黒い猫は、じっと『それ』の顔を見つめていた。
やっと出会った『意思を持つもの』に、『それ』は視線をはずせなくなる。
猫はしばらく『それ』を見ていたが、何もしないとわかったのか、ふいっと興味を失ったように顔をそらし、中断していた身づくろいを再び始める。
胸元の毛を整えたあと、器用に前足を舐め、今度はその前足を伸ばして顔を擦る。
ゆっくりと『それ』が近づいてくるのを感じると、猫は顔を洗っていた動きを止め、目だけでその顔を仰いだ。
「………君は、だれ?」
消え入りそうな、小さな声だった。
猫は前足をおろし、そろえると、ふわりっとその周囲を尻尾で巻いた。
黒い体毛の中でそこだけ白い…四肢の先と尻尾の先が揃い、遠目から見るとまるで白い珠を抱いているように見える。
「名前を聞いているのか?」
一応尋ねてはみたが、猫には目の前の者が自分の言葉を解するとは思っていないらしい。
どこかあいまいに首をかしげて、それでも頷いた『それ』に半信半疑ながら答えてやる。
「…サルファ、だ」
もしあいつが作りたかったものなら、わかるだろう。
猫…サルファは前の飼い主と一時的に協力していたそれを知っている。
それらは大概、サルファの言葉を解していた。
「サルファ…」
正確に、名前を繰り返した『それ』に、サルファは内心ため息をついた。
同時に、すでにいない飼い主に悪態をつく。
(…あの、バカが!)
サルファの内心など気づいていない『それ』は、おずおずと続ける。
「サルファ…、君も、一人ぼっちなの?」
その言葉の奥にひっそりと流れる、さびしい、という感情をサルファはすぐに感じた。
「…ああ。お前と同じだ」
サルファが答えると、「そっか…」とほんのわずか、『それ』の表情がほころんだ。
「同じ」という言葉に刺激されたのだろう。
だから、さらに続く言葉も、サルファには予想できた。
「…一緒にいてもいいかな?」
サルファは即答しなかった。
勘のようなものだとおもう。おそらく関わればまず間違いなく厄介な問題を抱え込む羽目になるだろう。だが結局、サルファは頷いた。
「…そうだな。それも悪くない」
『それ』の顔にほのかに笑みが浮かぶ。はにかむような、かわいらしいと表現できるようなものだった。
「ありがとう。えっと…僕は…」
礼を言って、そこで自分の名前を相手に伝えていないと気づいたのだろう。
思い出そうとするかのように、視線を宙にさまよわせる。
「ヴェイン、だ」
先んじて、サルファが告げた。
「あいつがそう呼んでいた」
「ヴェイン…」
さらりと付け加えたサルファを目を丸くして見つめる『それ』…ヴェインは、無意識のうちにその言葉を反芻する。
初めて教えられた、初めて知った自分の名前。
それまで、だれからも教えられていなかった、自分自身も知らなかったということを忘れて、ヴェインは繰り返す。
「…僕の、名前…」
呟きながら、感じる。
…あの時と同じくらい、胸が温かくなった。
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