花のように

 

 

花のように 2

 



クロイツ枢機院長から借りることができた部屋は、フェルトにとって懐かしいものだった。

「…変わってないなぁ…」

結局数年間しか使わなかった一人部屋ではなく、長い間ヴィーゼと一緒に過ごした部屋。
さすがに当時置かれていた子供用の家具などは取り替えられているが、雰囲気は昔のままだった。
フェルトは上着を脱ぐと、そのまま部屋の端に置かれたベッドに倒れこむ。
掛け布に顔を伏せたまま、しばらくしてポツリと呟いた。

「なんでなんだろうな」

あの頃。この部屋で一緒に過ごしていた頃と、ヴィーゼへの気持ちは変化していないはずだ。
フェルトの最も古い記憶までさかのぼっても、彼とヴィーゼは一緒にいた。
その頃からずっと一緒にいた、『家族』。
幼馴染という言葉もあるけれど、それよりももっとお互いが近い距離にあった。
具体的に、それを表現する言葉をフェルトは知らない。
それに、知らなくてもかまわないと思っていた。
ヴィーゼが傍にいれば…言葉で認識する必要などなかったから。

それなのに、昔は思いもしなかった衝動が、今はフェルトの中にある。
ヴィーゼを、一人の女性として求めているということ。
フェルトにとってそれは、にわかには受け入れがたいものだった。
大切な、何にも代えがたい存在。フェルトはそんな彼女に対して、たとえ夢の中とはいえ、してはならないことをしてしまったのだから。

飛び起きたあと、しばらくは汗が止まらなかった。
夢の中のあの甘い匂いが、起きた後もまだ体に残っているように感じて、フェルトは剣の練習を口実にベルクハイデ門に行き、そのまま湖に飛び込んだ。頭を冷やすのに、ちょうどいいとも思った。
けれどそれが甘い考えだと分かったとき、ヴィーゼの工房を一時離れる決意を固めたのだ。

そのときのことを思い返していたフェルトの表情がぎゅっとしかめられる。
ヴィーゼに、こんな劣情を抱く自分を気づかれたくはなかった。
いまも、そしてこれからも。

「すぐに、帰るから…」

そして、この衝動をどうにかして押さえ込み隠すことができれば、今までどおりヴィーゼと、イリスと3人、あの家で暮らせるだろう。

「ヴィーゼ…」

目を閉じて呟いたフェルトの脳裏には、ヴィーゼの笑顔が浮かんでいた。



「フェルト、フェルトってば」

朝。部屋で眠っていたフェルトの傍で、彼の名を呼ぶ甘い声がする。
その声音は、彼の幼馴染であるヴィーゼのものとよく似ていた。
それに気づいているフェルトは、目を閉じたまま眉間にしわを寄せる。

「…ドゥル、うるさい」

こう毎日同じことをされていると、フェルトもいい加減慣れてくる。
最初の内は寝ぼけて勘違いしたまま飛び起きたこともあったが、現在ではすでにその対処法を見につけていた。
ベッドに横になったまま、くるっと掛け布を巻き込んでドゥルに背を向ける。
寝起きの悪いフェルトのために、『ヴィーゼのまねをしてフェルトを起こそう』作戦をずっと続けていたドゥルは、今度は素の声に戻ってフェルトを起こそうとする。

「起きなよ。もう朝だよ〜朝ですよ〜」

「…」

「フェールートー」

「…」

袖を振り回しながら、ぽんぽんと宙で跳ねていたドゥルだったが、まったく動きをみせない少年に、ほっぺたを膨らませる。

「もうっ!そんなことしてたらヴィーゼに言いつけるんだからっ!……わっ!」

そう言ったドゥルの顔を、大きな布が覆う。
ベッドから起き上がったフェルトは、ばたばたとその布から抜け出そうとするドゥルの前を横切ると夜着のシャツを脱いでいつもの服に着替え始めた。襟の詰まったシャツを着て、次いで両手にグローブを着ける。
クッと布が引っ張られる感触にフェルトが目を向けると、シェアドリングにグローブの端がひっかかっていた。
黒い布地に、朝陽を浴びて光沢を増したリングの金色が映える。


それはフェルトがベルクハイデに初めて向かうとき、ヴィーゼが渡してくれたもの。
エデンに戻った後もずっと、二人の手を飾り続けているもの。

淡く、自らが光を放っているようなそれを、フェルトは黙って見つめる。

「フェルト!せっかくフェルトを起こしてあげようとした、優しいオイラに対して何てヒドイことするんだい!?」

しかし不意に背後で上がったドゥルの声に、フェルトは視線を指輪から逸らし振り返った。
そのときには指輪を見つめていたときのような気配はなくなり、いつもの表情に戻っている。

「何言ってるんだ。ひどいのはお前だろ?いつもいつも人の安眠を邪魔して」

「邪魔〜?親切だよ。これ以上寝てたらフェルト、目が寝溶けちゃうよ?」

「…大きなお世話だ」

言いながらフェルトは上着が掛けられていた椅子からそれを取る。そのまま部屋を出る彼にドゥルは急いでその後を追った。




たとえ辛くとも、一時離れさえすればこの衝動は治まるのではないかとフェルトは思っていた。
確かにそれは一部正しかったのだが、実際はむしろ、苦しさが増しただけだった。

「あっ」

夕方、枢機院の中の廊下を歩いていたとき、その曲がり角でヴィーゼの姿を見つけた。
ぼおっとしていたフェルトとぶつかりそうになったヴィーゼは、少しびっくりしたように目を見開いたあと、にこっと笑ってその顔を見上げる。

「こんにちは、フェルト」
「…ヴィーゼ。こんにちは、かな」

返事の遅れたフェルトに、ヴィーゼは笑顔を苦笑に近いものに変えた。

「…。なんだか、やっぱり慣れないね。こんなふうに挨拶するのって…」

「…そうだな…」

いつもはその傍にお互いがいたのだから、挨拶は必要なかった。

「あ…フェルト。前にイリスを枢機院の錬金術教室に通わせてあげたいって言ってたでしょ?さっきクロイツ枢機院長にお願いしてね、来週から通えることになったんだよ」

数日振りに妹イリスの話を聞き、フェルトは穏やかな笑みを口元に浮かべた。

「そうか…前から錬金術の勉強したいって言ってたしな。イリスが聞いたら喜ぶだろうな」

「そう!だから早く知らせてあげなくちゃね、フェルト」
「…そうだな」

一拍置いたフェルトの返事にヴィーゼは一瞬、はっとしたように表情をこわばらせた。

「…そう、だよね」
「…」
「…」

「じゃあ、俺、こっちに用があるから」

途切れがちになった会話に、フェルトが切り出すと、ヴィーゼはこくんと頷いた。さびしげな色が、その瞳に一瞬浮かぶ。

「うん。わかった。…また明日ね。フェルト」


「……ああ」

ヴィーゼの言葉を聞き突然、不機嫌になったフェルトの様子に、ヴィーゼの動きが止まる。
しかし驚きの表情を浮かべたままのヴィーゼを残し、フェルトはそのまま廊下を歩いていった。


ヴィーゼの姿が見えなくなる場所まで歩き、そのまま手近な扉を開けて中に入る。
後ろ手に扉を閉めそこに背を預けると、フェルトは片手で顔を覆った。

「何やってるんだ…俺」

ヴィーゼは、いつもどおりだったはずだ。家を離れている自分を気遣って声をかけてきた。
それがなぜ、こうも気持ちをいらだたせているのか。

『また明日ね』

そんな言葉を、お互いに向かって使ったことがなかった。帰ることも行くことも、一緒だったのだから。だからといって、ヴィーゼがこの言葉を使うことに苛立ちを感じるのは間違いなのに。




 

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