のぞむことはたったひとつ

 

希求 3

 



ずっと、願っていることがある。
あの日…兄が隠そうとしていた事実を知ってしまった日から。




兄が帰らなくなって数日。
大家から兄の状況を伝え聞いた翌日、リエーテは兄との約束を破り街に出ていた。
手にはこれまで兄に内緒の宿の手伝いで稼いだわずかなお金がある。
兄はリエーテが宿の外へ出歩くことをひどく嫌い、たとえ彼と一緒であってもあまり長い時間外で過ごすことは出来ないでいた。
それでも、兄がよく行っていた場所をリエーテは知っている。
兄と同じ軍の兵士たちが集まる場所…そこへ行けば居場所を聞くことが出来ると考えたリエーテは、まだ体調の思わしくない体でゆっくりと道を辿る。
途中、にぎやかな表通りに出たリエーテはその賑わいに押されるように道の隅のほうに寄った。
そのすぐ傍で大きな物売りの声が上がり、売られているのが兄の好物だとリエーテが気づいたのと同時に、店の店員と目が合う。

「あの…」

兄と、大家夫婦以外の人間と会話をするのは久しぶりだった。
緊張から小さな声になるのを堪えつつ、日差しを浴びて金色にみえる果物の山を指差す。

「それを、2つください」




リエーテが道を間違えたと思ったときには、遅かった。
表通りから横に入りしばらく歩いたその通りは薄暗く、すぐにもう一つの大きな通りに出るはずの道はリエーテの見る限り見つけられない。
通りの両脇に座り込みボロ布を巻きつけた人々が、場違いな侵入者に注目していた。
じろじろと注視するわけではない。
その中の一人の男がさりげなく、気のないそぶりで地面を靴のかかとで意味なく擦りながら、伸ばしきりの髪の間から、リエーテの手の中の袋を見ていた。
どろっと粘りつくようなその眼を見てしまい、リエーテの体がこわばる。
背中を汗が伝った。

「…食い物…」

不意に近くで聞こえた声と、服を引っ張られる感触にリエーテが振り向くと、彼女より頭数個分低い子供がスカートのすそに取りすがっていた。
煤けた炭のような匂いに混じって形容しがたい酸い匂いが体にまとわりつく。

「…あ…」

あとずさりかけたリエーテを逃すまいとするように、その子供は力いっぱい布を握り締めた。皮膚の下で骨が浮き出ているのがはっきりとわかるほど細い腕にもかかわらず、その力はリエーテがバランスを崩しそうになるほど強い。
リエーテは必死で胸に袋を抱きしめながら、ずりずりと靴を擦るようにして離れようとする。

「だめ…これは、ダメっ!」

自分のためのものだったなら、リエーテはそれを手渡していただろう。
あるいは故郷の村で暮らしていた頃でも同じ事をした。
けれども、今リエーテの暮らす場所は、もっとも華やかで最も淀んだ『帝都』であり、手の中にあるのは、囚われの身となった兄のためのものだった。

「駄目なの!…ごめんなさいっ!!」

彼らにとってリエーテの持つ食べ物は、自らの命をつなぐためには必要不可欠なものだと、見ればわかる。
彼らの飢えに及ばないものの、リエーテにも食べ物がないという経験はあるのだから。
胸の中が罪悪感にいっぱいになって、ひどく痛い。
それでも、リエーテは思いっきり片手で服を手元に引き寄せると、子供の手に服の切れ端を残したまま身を翻す。
追いかけてくる気力が彼らにないとわかっていたが、いつまでも追いかけられているように感じて、リエーテはその幻の気配に追い立てられるように走っていった。



軍の詰め所にたどり着いたときにはリエーテの息はあがり、体中にいやな汗が伝っていた。
もともと体が強いわけではない。さらに体調もわずかによくなったばかりで、無理をすればすぐに以前と同じ状態になるとわかっていた。
胸に兄の着替えを入れた袋と、途中買った食べ物を抱えて、リエーテは建物の壁によりかかる。
ここまで来れば、兄にはすぐに会える。
少しだけ、息を整えて。兄に心配させないように振舞えるようになるまで少しだけ休んで、それから会いに行けばいい。

「…おい、嬢ちゃん。どうした?」

「大丈夫か?具合が悪いのか?」

そう思っていたリエーテが不意にかけられた声に顔を上げると、そこには心配そうにリエーテを覗き込む男たちの姿があった。
どうやら、街から帰ってきた兵士らしく、詰め所の前に行き倒れるように寄りかかっているリエーテを見つけて声をかけてきたらしい。

「顔色が悪いな…。たしか近くに街医者があっただろ、奥の奴に言って…」

リエーテの一番近くに座り込んで顔を見ていたそのうちの一人が傍に立つ男に声をかける。
その言葉に、ここから連れて行かれそうになっていることに気づいてリエーテは慌てて声を上げた。

「私は大丈夫です。それよりも兄に…兄に会わせて下さい!」

「兄?」

リエーテに袖を掴まれたその男は、大丈夫という言葉に続く『兄』の単語に面食らったように尋ね返した。こくんと頷いたリエーテの必死な表情にその表情を深める。

「ここを出入りする野郎に、こんな可愛い妹がいる奴…いたか?」

「聞かねぇなぁ…。嬢ちゃん、兄ちゃんの名前は?」

ぼりぼりと頭をかきながら、同僚の言葉に答えたもうひとりが何の気なくたずねた。

「ケイオスです」

「!?」

「ケイオス!?」

道で出会った少女の口から出された名前に、ぎょっとしたように二人がリエーテを見つめる。『ケイオス』という単語は、帝国内にあっても一種恐怖の対象である。特に軍に関する場所では顕著でもあった。
あの鉄面皮に家族がいたということも驚きなら、そのひとりが目の前の幼げな少女というのも2重の驚きだった。

「兄が何日も戻ってこなくて、人伝に、牢に閉じ込められていると聞いて…」

不安げな面持ちで「兄にあわせてほしい」と懇願するリエーテに、二人の男はお互いの顔を見合わせる。ケイオスが現在いるのは、城近くの軍の本部だった。しかも立ち入りはある程度の階級に達したものしか出来ず、彼らには許されていない。
加えて軍規により、身内であっても今は会うことは出来ないはずだ。
その事実を目の前の少女に告げるべきか、(顔色の悪い彼女にそのことを伝えて倒れられてしまったらという考えもある)迷っていた二人に、普段であればあまり嬉しくない…今は天の助けとも聞こえる、声がかけられた。



軍に拘束されて数日。
一日おきに牢から出されて尋問を受けていたケイオスは、置かれた椅子に腰掛けたまま黙って正面の壁を見つめていた。
拘束されても、ケイオスの言動が大きく変化するわけではない。
牢の中でも暴れるわけでもなく、解放を懇願するでもなく、何事もないかのようにただ黙っている。尋問はともすれば苛烈さが加わり拷問めいたものになると知る監視役はそれも何日もすれば崩れると考えていたが、数日を過ぎる頃になるとその不気味な静けさに、同じ場所にいることを嫌がり始めていた。

余人からはただの無表情と取られるその下で、ケイオスはずっと部屋に残してきたリエーテの事を考えていた。

早く、妹のもとに戻ってやりたかった。
やっと、ベッドに体を起こすことができるようになったのだ。
まだ彼の求めるものは見つけることが出来ないが、今出来る限りの最良の薬もようやく手に入れることが出来るようになった。
ケイオスには、彼女のためとはいえ妹をずっと部屋に閉じ込めているという負い目があった。
ただ発作の回数もようやくおさまりかけている様子に、もう少し体調がよくなれば、帝都の近くの丘に連れて行ってやりたいとも思っている。
軍の訓練のときに通りかかったその様子が、故郷のアルヒェに似ていることに気づいたときから考えていたことだった。

あの病で倒れる前、両親が村を離れていることが多かったため、寂しがる妹を連れてケイオスは村の近くにある丘まで行っていた。
そこからはケイオスたちの住む村を一望できるだけでなく、西の湖の向こうに続くリーゼヴェルトへの道が細く見える。
両親はあそこを歩いて街に行っているのだと、ケイオスが指差した先を涙目で見つめた幼い妹はその道よりも、目の前にうつる大きな夕日に目を奪われていた。

遠い昔のことを思い出していたケイオスは、唐突な気配に意識を引き戻された。
牢の端で監視役の男が立ち上がり、何か慌てている様子が伝わってくる。
その気配が不意に無くなり、辺りがシンッと静かになった。
けれども、ケイオスはそれまでの無表情のまま、牢の外の通路をじっと見つめていた。
その視線の先で、小さく石の床を歩く硬い音が響き、やがて大きなケープを被った小柄な少女の姿が目に入ってくる。
少女はケイオスの姿を認めると、彼のものと同じ赤い瞳を大きく見開き、牢の格子に触れるほど近くに走り寄った。

「兄さん!」

ようやく会えた、その安堵をこめてリエーテは兄を呼んだ。
しかし走り寄る少女の姿を認めた瞬間、ケイオスの表情は険しくなり、久しぶりの妹の呼びかけにもそれを緩めなかった。

「なぜ、来た」

リエーテはその言葉に体をこわばらせた。
それまで心の中に描いていた思いが嘘のように、ケイオスの瞳に宿った光は冷たい。

「オマエが来る所ではない。すぐにここから出て行け」

姿を見るまで胸の中に詰まっていた不安が安堵に変わった瞬間、浴びせられた言葉の鋭さに、リエーテの体がすくむ。
差し入れは出来ないからと、案内してくれた女性から持ち込むことを止められていた果物がひとつ、リエーテの手から零れ落ちた。






 



 

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