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…あの人と出会ったのは、私が錬金術士になるために枢機院の奥へ初めて足を踏み入れた日だった。
確か、10歳になったばかりだったと思う。
「そこは正錬金術士以上のものでなければ、立ち入り禁止ですよ」
初めての場所で、ものめずらしさも手伝って辺りを見回していたら迷ってしまい、大きな扉の前で思案していたところを、後ろから声をかけられた。
「申し訳ありません」
振り返ってあわてて頭を下げる。
そして顔を上げて見上げた姿に、私は息を呑んだ。
ステンドグラスの色を映してつやつやと輝く長い髪。
静かな光をたたえたその目は宝玉のように艶めいた赤い色をしていた。
それまで、闇のマナに会う機会がなかったといえば嘘になる。
けれども、初めて会うマナのように緊張したことを覚えている。
「あまり枢機院ではお見かけしませんが、こちらには…」
「今日から、枢機院で錬金術の勉強をさせていただくことになりました。クロイツと申します」
姿によく似合う静かな声が再びかけられて、私は精一杯冷静な声で答えた。
しかし、やはり背伸びをしていることが相手には伝わったのだろう。
あの人はほんの少し目を細めて、やさしい笑みを口元に浮かべた。
「わたしはルテネス。こちらの司書を勤めさせていただいています。」
その日、新しい枢機院長が誕生した。
宣誓の言葉のあと、立ち上がったクロイツの前に、前代の枢機院長から、その証である杖が差し出される。
「新たなる道を切り開くこの者に、リリスとマナの加護があらんことを」
その小柄な体からは想像もつかない、力強い声に励まされるようにクロイツは杖を手に取る。
その時、厳かな表情を保っていた前院長が、一瞬、にやっと笑みを浮かべた。
「これでやっと孫の相手ができるよ」
周りのものに気づかれないように囁かれた前院長の言葉に、クロイツは一瞬緊張が途切れる。
苦笑を浮かべそうになる口元をあわてて引き締めて、ゆっくりと振り返った。
前院長とともに並び立ち、肩にのしかかる重責と、それと同じほどの喜びを感じながらクロイツは穏やかな笑みを浮かべる。
しかし、就任を祝う多くの錬金術士たち、マナたちの姿を見回したクロイツの目が、あることに気づきほんの少し翳った。
―― そこに、彼がもっとも来て欲しいと思っていた者の姿はなかった。
「ルシィ、聖堂へ行かなくてもいいの?」
ひっそりとした空間に、その静寂を妨げない静かな声が響く。
静寂か、書物を探すかすかな衣擦れと紙を繰る音しか響くことの稀な場所に、2人の闇のマナがいた。
「ルテネスが行くなら、行くわ」
「わたしは…行く理由がないもの」
ルシィと呼んだ闇のマナの返事に、ルテネスは目を伏せがちに呟いた。
「でも、あの人があなたに声をかけなかったとは思えない」
「……」
その言葉を聞きながら、ルテネスは黙って本の整理を続ける。
指が触れた一冊の本から、ぱさり、と紙が落ちる音が響いて、ルテネスは身をかがめてそれを拾い上げた。
「あの方の闇のマナは、あなたでしょう」
「でも、あの人が一番見て欲しいと思っているのは、あなたよ。ルテネス」
その言葉に、ルテネスの指が止まる。
「…いいえ。闇のマナだって、本当はあなたになって欲しかった。でも断られたって聞いたわ」
「ルシィ…」
「あの人があなたを想っていること、あなたがあの人を気にしていることを、私は知っていたわ。だから契約したのよ。…何も知らない他のマナが、あの人と契約したりしないように」
もしそんなことになれば、そのマナがあまりにかわいそう。
同じ闇のマナのはずなのに、契約した自分よりも他のマナに惹かれている錬金術士の傍にいるなんて。
「ルシィ…やめて」
ルシィの言葉に、ルテネスが辛そうに顔をしかめた。ルシィはそれを受け入れず、ルテネスに近づくと伏せがちになっているその顔を覗き込んだ。
ルテネスは幾冊かの本を心の拠り所にするかのように胸に抱きしめている。
「ルテネス。あなたがあの人のことを考えて、契約を受けなかったことは、ある意味では正しかったと思う。…今日のことを、予想していたのでしょう?」
今日、枢機院では新しい院長が就任した。
6年前に高等錬金術士となり、枢機院長の後継者として日々仕事をこなしていたクロイツが、エデンの錬金術士たちの推挙そして枢機院長の承認を経て、その要職に就いたのである。
しかしその承認にはいくつかの条件があった。
一つには、高等錬金術士の資格を持っていること。
もう一つは、契約したマナが枢機院や他の要所で特別な役割を持っていないこと。
枢機院の司書を務めるルテネスは、その条件に自らが適合しないとわかっていたため、クロイツの契約を断っていた。
「もしそうなら、今日こそはあの人の傍に行ってあげて。ずっと、あの人は待っていたのだから」
「……っ!」
ばさりと、ルテネスの手から本が滑り落ちる。
けれど結局、ルテネスは聖堂に向かうことはなかった。
【2へ】
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