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その数時間後。
「邪魔するよ」
ルテネスのいる図書館に訪れた老齢の小柄な女性に、彼女はその傍に近寄った。
「シルヴェステル枢機院長」
いつもと変わらぬ呼びかけに、前枢機院長であるシルヴェステルは苦笑を浮かべた。
「元、だけどね。今日からはシルヴェとだけ呼んでくれればいいよ」
「失礼しました。…シルヴェ様」
恐縮するルテネスにひらひらと手を振って笑うと、シルヴェステルは表情をやんわりと変えた。
「その様子だと、今日は来なかったんだね」
「…はい。申し訳ありません」
「私に謝る必要はないよ。…ただあの坊や、いや、枢機院長ががっかりしていたからね」
「…」
「ルテネスや」
ちいさな愛し子に接するような呼びかけとともに伸ばされたシルヴェステルの手に、ルテネスは身をかがめる。
そっと髪を撫でられて、目を閉じた。
「今日のうちに私はここを出るからね。…挨拶をしておこうと思ったんだよ」
50年以上枢機院にいた錬金術士は、ルテネスがここにやってきた時のことを知っている数少ない人間だった。そして、いつしかルテネスの中に息づいたちいさな想いにも気づいていた。
「シルヴェ様…」
「大丈夫だよ」
不安げな表情で見返したルテネスにシルヴェステルは頷いてみせる。
なんどもその手がルテネスの髪を撫でた。
「焦らなくてもいいさ。向かい合う時間はあるんだから。…あの坊やも、10年以上待ってるんだ、あと数年くらいなんてことはないよ」
「でもわたしは人間ではありません」
あまり感情が露にならないマナのはずが、ルテネスは泣き出しそうな顔で告げる。
「気にするとは思えないよ。あれがそのことについて考えなかったと思うかい?考えた上でお前さんがいいって言ってるんだから」
「…」
「ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりで」
ちいさな肩に顔を埋めたルテネスをシルヴェステルは抱く。
「まあ、なにかあったら私のところにおいで。…坊やを懲らしめるくらいはしてやるよ」
明るい口調でそう言ったシルヴェステルに、ルテネスは顔を伏せたまま、小さな子供のようにこくんと頷いた。
深夜の闇に包まれた枢機院。
すでに多くの枢機院員たちはそれぞれの住居に戻り、その中はひっそりと静まり返っている。
ルテネスは図書館の中でひとり、本の整理を続けていた。
昼間、ページを落としてしまった本を広げて、その場所を探す。
ページの紙にはその数が記されておらず、何度も読み返され、跡のついていた本からはその場所を見つけることは難しい。
小さくため息をついたルテネスはそのとき、扉の向こうに人の気配を感じた。
「…っ」
本に伏せていた目を上げたルテネスは、ゆっくりと開けられる扉の向こうを見つめる。
そこには、ルテネスの予想した人物が立っていた。
「まだいらっしゃるとは思っていたのですが、お会いできてよかった」
室内に入り、ルテネスの傍まで近づいたクロイツは、硬い表情にわずかに安堵の様子を浮かべて告げる。
「クロイツ様」
「遅くまで、仕事をされていたのですね」
その傍の机にある本に目を留めクロイツが言うと、ルテネスは頷く。
「ええ。…今日は本の整理が多くて」
とっさについた言い訳に、ルテネスが口を押さえる。
その様子に、クロイツの表情が翳った。
「今日、枢機院長の就任式がありました」
「シルヴェ様からうかがいました。就任、おめでとうございます」
淡々と告げたクロイツに、ルテネスはほのかな微笑を浮かべて、祝いの言葉を告げる。
しかしクロイツは、祝いの言葉に一瞬複雑な表情を見せると、真剣な表情になった。
まっすぐに、ルテネスの顔を見つめる。
「…私は、あなたに来て欲しかった」
「……」
「多くの人々に祝われながら、こんなことを思うのは贅沢なのでしょう。でも、私は…」
言い募りかけたクロイツは、ルテネスの表情に気づくと苦笑した。
自らの焦りを恥じるように謝る。
「…すみません。お忙しかったのに無理なことばかりを言ってしまって」
「いいえ。わたしのほうこそ、クロイツ枢機院長にお声をかけていただいていたのに」
クロイツ様、と呼びかけて、ルテネスはもうそれが彼にふさわしくないことに気づいた。
そっと、その言葉を「枢機院長」に変える。
「やめてください」
ぼそりと、クロイツが呟いた。
「え?」
戸惑うルテネスに、クロイツは言葉を続ける。
「その呼び方を、です」
「でも、今日から枢機院長になられたのでしょう。でしたら…」
「いいえ」
よほど辛いのか、クロイツの眉がひそめられている。
懇願するようにルテネスの前に顔を俯けた。
「今までどおり、クロイツと呼んでください」
まるで祈るような仕草で、クロイツはルテネスの髪の一房を手に取る。
「あなたに、役職の名で呼んで欲しくありません」
目を伏せて、そこに口付けを落とした。
呆然と、ルテネスはその様子を見詰めていた。
「…クロイツ、様?」
呟きに気づいたクロイツが顔を上げる。
そこに浮かんだ表情を見て取り、クロイツはあわてて体を起こした。
「失礼しました」
自分が起こしてしまったことを自覚して、頬をかすかに赤らめる。
「…いいえ。大丈夫です」
ルテネスも頬を染めていたが、ゆっくりと横に首を振ってわずかに微笑んだ。
「わかりました。これまでどおりクロイツ様と呼ばせていただきます」
その言葉に、クロイツの表情に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます、ルテネス」
そしてしばらくしてふと、本の方へ視線を向けたクロイツが、ルテネスに声をかけた。
「この本には修理が必要だと思うのですが、もしよろしければお手伝いさせていただけませんか?」
「クロイツ様のお手を煩わせてしまいますけれど…」
「大丈夫。それに本を修理するのは力が必要でもありますよ」
院長の手伝いをする傍ら、院長以外が触れてはならないといわれていた本の修理もさんざさせられていたクロイツである。
そのことをクロイツがルテネスに告げると、ルテネスは笑って、小さくお辞儀をした。
「では、お願いできますでしょうか?」
「もちろんです」
にっこりと、クロイツには珍しいさわやかな笑顔を浮かべて頷いた。
ゆっくり、ゆっくりと。
気持ちが寄り添うまで。
優しい闇が、二人を包むまで。
【終】
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