のぞむことはたったひとつ

 

希求 5

 


 



その後、ケイオスはリエーテに向かって言った言葉の通り、数日で彼女の元に返ってきた。
突然解放されたことについてはしばらく経っても兄から何も話はなく、数週間後には、任地が帝都からリーゼヴェルトに変わる、とリエーテは聞かされた。

「リーゼヴェルトって、お姫様や王様がいる都の?」

「ああ、今はいないが」

幼い頃にアルヒェの人から聞かされたことを思い出し、リエーテが尋ねるとケイオスが頷いた。
上着を脱ぎ、手袋をはずしてベッドに休む妹の傍に近寄ると、そっとその頬に触れる。

「おそらくは何年もの仕事になるだろう。…ついてこれるな?」

「うん」

その言葉に、リエーテは目を閉じて頷く。おそらくは自分でも気づいていないほど小さく、ケイオスが安堵の息を漏らしたのを感じ、リエーテはぎゅっと自分の両手を握り締める。
まだ気づかれてはいなかった。そしてそのまま、気づかないで欲しいと心の中で願う。
そうしなければ、兄はもっと自分を追い詰めてしまう。
まだ私は耐えられる。まだ、我慢できる。…嘘をついていられる。

「大丈夫…」

けれど、嘘をつけば、それは己に帰ってくる。
必死の思いで隠していても、それはいつか暴かれる。
リーゼヴェルトに移ってからしばらくすると、『瞬弟』の名のために妹が狙われることを恐れたケイオスは、短い期間で滞在箇所を変えるようになっていた。
その幾つ目かの宿で兄を迎えた日、リエーテはケイオスの目の前で倒れた。
兄を出迎えようと、ベッドから起き上がり、数歩扉の前にいる彼のほうへ歩いた時のことだった。
倒れる間際、扉の前にいた兄の姿がリエーテの目に映る。
『瞬弟』と、恐れられているという兄の、こんな姿は誰も想像もしないだろう。
顔からは血の気が引き、目を大きく見開いてあわてて駆け寄ってくる。

「リエーテ!!」

悲鳴のような声も、きっと誰も聞いたことがない。
…私以外、誰にも見せていない。
そう思うと、胸がいっそう苦しくなった。
これは罰だ。
胸の痛みを感じながらリエーテは思う。
あの時から、つき続けた嘘の代償がこれなんだ。

「…ごめんなさい…」

「なぜ謝る…謝るな、リエーテ!」

その言葉を誤解したケイオスが、抱き起こしたリエーテの肩を押さえる。
深い紅に似た眼の奥に焦りと不安を感じ取り、リエーテは悲しげに表情を曇らせた。

倒れるたびに、兄の目の奥に焦りが募っていくことに気づいていた。
わずかずつではあるが増えていた錬金術の遺物…けれどそこには、兄の望むものはない。
そして、そのたびに彼は罪を犯していく。
それを駆り立てているのは、妹の病を治したいという思い…つまりリエーテ自身に他ならなかった。
自らの存在が、兄に罪を犯させている。
ある時はそう感じて、はやく命を召してくれるよう、神に祈りかけたことがあった。
けれど、次の瞬間にはそれを慌てて放り出した。
自らがいなくなることによって生じる、もうひとつのことを思い出したからだった。
兄を、ひとりにしてしまう。
それはだめ。
一途に思いつめて、はては己をも追い込んでしまうこともある兄だ。
妹の病を治すことに自らの全てをかけている兄を残してリエーテが死ねば…ただではすまない。
それはリエーテでも容易に考え付く。

夜の闇の中、リエーテは目を開ける。
胸の苦しさはまだ残っているが、今ではこれが逆に、自分が生きているのだという証にも思えていた。
ゆっくりと視線をめぐらせると、リエーテのベッドのすぐ脇に椅子を置き、そこに腰掛けたまま首をうなだれているケイオスの姿があった。
寝入っているのだろう、けれど少しでもリエーテが起きだせば、きっとすぐに目を覚ます。
その姿を見つめていると、リエーテの目からは涙があふれ、幾筋も頬を伝い、そしてそれは枕元に広がる髪に隠れてゆく。
泣くことすら、体の力を奪うことになると言われ、リエーテはよほどのことがない限り涙を流そうとしなかった。
けれども今流れる涙は、静かに零れ落ちていて、彼女自身、頬を伝う冷たさに気づかなければそうとわからなかっただろう。
リエーテは震える両手を、ゆっくりと祈るように胸の前に組んだ。
生きたい、と思う。
一分でも一秒でもいい。
自分のためではなく、兄のために生きたい。
心の中でつむぐ。

「慈悲深き、アルテナ様…どうか…」

自らの命のために、肉親の手を血に染めさせ、罪すら犯させてしまった者が祈りを捧げるに値するのかわからない。
けれども、願う。

兄の心の中に、私以外の大切なものが生まれるまで。
せめて、兄を見守ってくれる誰かがあらわれるまで。
どうかそのときまで、私の時を止めないでください。
兄をひとりにしないでください。




 



 

 

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 【 終】                   
 

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