|
きっかけは、あの時だったのかもしれない。
フェルトはぼんやり薄れていく意識の中考える。
普段これほど至近距離で見ることのない瞳がさらに近くなる……。
それは、マルメルの森で以前の日課どおりすごし、ノイアールに戻ってきた時の事だ。
その日はふと見下ろした石畳に、見慣れたシルエットがあった。
大きな帽子と、ふわりと翻る長い法衣。腰でゆれるベルト。
誰と問わずとも、声を聞かずともわかるその姿。
「ありがとう、ヤッケ。またね」
影のもとをたどれば、ヤッケの店からヴィーゼが出てくる所だった。
フェルトはまだ町の入り口にいて少し離れていたのだが、
ヴィーゼに声をかけるつもりで片手をあげた、その瞬間。
ふわり、風に散った髪の下。
ふわり、風に揺れた袖の内。
特に普段と変わった所もないのになぜだか目に焼きついて、フェルトは声も出せずに固まってしまった。
立ち止まる彼を通りすがりのマナが不思議そうに見、通り過ぎていく。
ヴィーゼが立ちすくむフェルトに気がつくのに、そう長くはかからなかった。
ノイアールの入り口に幼馴染を見つけたヴィーゼは、たたっ、と軽い音をたてて駆けよる。
「おかえりなさい、フェルト」
「あ、あぁ……ただいま、ヴィーゼ」
いつもはすんなりでる挨拶さえ、なんだかどぎまぎとしてしまい、フェルトはうろたえた。
「ねぇ、見て見て!ヤッケがすこしオマケしてくれたんだよ」
ヴィーゼは紙袋をがさがさと揺らして、中の品物を見せてくる。
中にはたっぷり赤色レジエンが入っていて、重そうだった。
「それはめずらしいな。重そうだから、俺持つよ」
言うだけ言って手を出すと、ありがとう、とヴィーゼは笑顔で紙袋をよこした。
この言葉はすんなりと出たことに、密かにほっとする。
……先程、挨拶の時だけ、なぜ?
しかし、その疑問をフェルトは心にしまった。
元に戻ったから、まあいいか……と簡単な事として考えて。
しかし、それは数日後、後悔に変わる。
日が経つごとに不思議な症状はひどくなっていったのだ。
なぜか事あるごとにヴィーゼのほうを見てしまい、
また、そんな時にヴィーゼが自分のほうを向くとあわてて目をそらしてしまうようになった。
以前であればそのまま視線があっても、なんともなかったというのに。
見ないように、見ないように、と心がけても、
ふと気を抜いた瞬間、ヴィーゼに目をやっている。
そして、また繰り返し。
「はぁー」
二階に上がって早々、フェルトは大きなため息をついた。
もう、最初の異変から一週間ほどが経っている。
その間、まともにヴィーゼの顔を見ていない。
「どうしちゃったんだ、俺……」
ぼすん、と自分のベッドに乱暴に腰掛け、罪悪感に一人ぼやく。
結局、夕飯中にもまた同じしぐさをしてしまい、彼は食事もそこそこに二階にあがってきた。
そもそもこの頃には既に、食事ものどを通りづらくなっていた。
イリスとヴィーゼは、今頃まだ食べているだろう。
そう、共に暮らす家族に想いを馳せる。
そういえば、『今日はイリス、枢機院にお泊りするんだよ』なんて、
食事中、ヴィーゼが嬉しそうに言っていた気がする。
「……ちゃんと送り出してやらないとな、イリス」
イリスはずっと寂しい思いをしていたからか、そういった年頃であるからか、
周囲の人の感情のゆれ動きには非常に敏感だ。
このところ態度のおかしいフェルトにもとっくに気づいているだろう。
せっかくのイベントだというのに、幼子の心に憂いを残してはいけない。
そこまで考えて、ふと、気づく。
「イリスがいない?……ってことは……今日はヴィーゼと二人っきり?」
なんのことはない、イリスが来る前とおなじ状況になるだけではあるが、
当時とは一つだけ違ってしまっていることがある。
顔もまともに見られず、話も上の空になってしまうこの状況で、二人きりになってしまうのか?
さすがのヴィーゼも、最近は不思議そうに自分を見ていた。
……怪訝そうに、だけではない。明らかに心配している顔だ。
それでもイリスがいるから、まだそちらに意識を向けてどうにかなっていた節もある。
これ以上ヴィーゼに心配はかけたくない。
以前とおなじように見つめあったり、声を交わしたりしたくてしょうがない。
けれど、声をかけようと、顔をあわせようとすると、ヘンな行動をしてしまう。
「今夜はヴィーゼと二人っきり、か…………まいったなぁ」
ふぅー……と細く長くため息をついて、しかめ俯いた顔を手で押さえた。
フェルトは気づいていない。
思わず口に出していた短い言葉を、階段の踊り場でヴィーゼが耳にしていたことに。
「いってらっしゃい、イリス」
「いってらっしゃい、楽しんでおいで」
「ではイリスを預かりますよ、二人とも」
「はい、よろしくお願いします。クロイツ枢機院長」
二人の笑顔に見送られて玄関を走りでたイリスは、差し出されたクロイツの手をしっかと握った。
今日のことを言い出したのはクロイツ枢機院長だった。
『最近は私やルテネス、ほかの枢機院員にもずいぶん慣れてくれましたし、
以前二人が枢機院で暮らしていたことを話した時にはすごく興味をもっていたようですから』
そうクロイツ枢機院長はヴィーゼに言ってきたのだという。
日ごろ枢機院長とよく顔をあわせているはずなのに、なぜかフェルトには直接伝わっていなかった。
しかし、疑うことを知らないフェルトはその事実を気にも留めていないが。
「ああ、フェルト」
「はい」
枢機院長はイリスと手をつないだままくるり、と後ろを振り返り。
「近頃どうも様子がおかしいようですが。……何かあるならば、きちんと相談しなさい。
私でもいいですし、ルテネスや、もちろんヴィーゼも聞いてくれるでしょう。
私達は皆、血の繋がった家族以上に、貴方のことを想っていると自負しています。
……なにを抱え込んでいるのか知りませんが、周囲に心配をかけるまで放置してはいけませんよ」
真顔で枢機院長を見る表情がぴくり、と引きつった。
「……ご心配をお掛けしてすみません、クロイツ枢機院長」
フェルトは表情をそのままに伝えようとしたけれど、幾分しかめた顔になってしまった。
それを見たクロイツは一瞬顔をしかめ、ふぅ、と小さくため息をついて微笑んだ。
「私はあなたの父親代わり。……言わば、心配するのが私の仕事です。
しかしあなたも父親代わりのように想ってくれるのなら、明日顔を合わせる時には笑顔を見せてくださいね」
「ありがとうございます」
しかめた顔は幾分和らいで、それを見たクロイツは「では」と小さく言って、
イリスの手を引いて枢機院のほうへ向かっていった。
ヴィーゼは気を使ったのか、声をかけず先に工房に戻っていった。
その後を追い、開いたままのドアに手をかけて、
「…………すみません」
おもわず、遠ざかる背中にもう一度謝罪の言葉を口にした。
ぱたん。
ドアを静かに閉める音が狭い工房に反響する。
ゆっくり踏み入れた工房の中、ヴィーゼは二階への階段の手すりに手をかけて、
しかし上るでもなく立ち止まっていた。
「……ヴィーゼ?」
声をかけると、ヴィーゼはくるりと振り返った。
幾分沈んだ表情に、フェルトはおもわず硬直する。
「あのね、フェルト……話があるの」
「え……うん」
ゆっくりと足音が近づく。
あわせて少しづつ顔を向ける角度が下がる。
フェルトはずいぶん久しぶりに、近い距離で顔を見た気がした。
「さっき、クロイツ枢機院長も言ってた……、
最近、フェルトがヘンなのって……あたしのせいだよね?」
一瞬、ぴくりと顔が引きつりそうになるのを抑える。
「……そんなことないよ。考え事してるだけだから大丈夫」
やわらかく笑って見せるが、ヴィーゼの表情は緩まない。
「ねぇ、だったら……ちゃんとあたしの目を見て言って」
言われたとおりに目を合わせる。
少々伏せた優しい瞳は、今は睫に幾分隠されている。
「心配かけてゴメン。でも、本当に俺は大丈……」
言い終わるより前に心臓がどくんと跳ねる。
空色の瞳が幾分大きく開かれて、引き込まれそうな感覚にばっと視線をそらす。
ヴィーゼはびく、と身を震わせた。
「っ、気にしないでくれ、本当になんでもないんだ」
もう、目を向けることも出来ずに、顔ごと逸らしてフェルトはすこし慌てた口調で言い募る。
表情のコントロールもきかずに、困ったような表情になってしまった。
「……そんなわけないじゃない!
なんでもないなら、どうして目もあわせられないの?」
ヴィーゼはばっと近づいて、服の胸元を両手で掴む。
フェルトは顔をそむけていたために反応が遅れた。
「ヴィーゼ」
「ねぇ、どうしてなんにも言ってくれないのっ」
服を掴む手を解こうとするが、いつのまにか瞳が潤んでいる。
今にも零れそうなほどに涙を溜めて。
「あたし、気づいてた……最近こっちを見てることは多いのに、
目を合わせようとするとよそ向いちゃうって」
「気づいて、たのか……」
さぁっ、と血の気が引く。
いや、気づかれているのはわかっていた。
わかっていなかったのは、それをどこまで彼女が重く捉えていたか、だ。
「言いたいことがあるなら言って!
どうしても気に入らないなら枢機院に戻って暮らす!
……だから、もうそんなふうに目を逸らさないで!」
涙がぽろぽろと零れ落ちて、頬に幾筋の軌跡を描く。
服を掴む手には色が変わるほどに力が込められていた。
自分の行動が、どれほどヴィーゼを傷つけていたか、フェルトは思い知る。
「ヴィーゼ」
「嫌っ!」
意を決して両肩に手を置くと、離そうとしたと思ったのか、
ヴィーゼは服を掴む手に力を込めて、ぐっと身を寄せた。
ぼすっ、と頭が胸に当たって、その勢いで帽子がふわりと床に落ちる。
「違うよ、ヴィーゼ。……聞いて。
ヴィーゼはなにもどこも悪くないよ。
俺がここ最近おかしいだけなんだ。
だから泣かないでくれ。ねえ、ヴィーゼ」
片手でそっと頭を撫で、幾度か名を呼ぶと、
涙でひどく濡れたまま、少し怯えた顔がまっすぐフェルトを見上げた。
頬は、すこし紅潮していて。
瞳は涙に潤んでいて。
唇は震えていて。
……そのすべては自分のために。
鼓動がいやに早くなるが、気づかないことにした。
……しかし、どんどん音が大きくなる。胸をどんどんと叩かれているのかという程に。
意識がどんどんと危うげになっていく。
「ヴィーゼ……」
小さく、かすれた声が唇を震わせる。
ふぅ、と脱力したように、自然に。
唇に唇を重ねた。
【
2へ】 |