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青白い雪の上に、赤い模様が点々と続いている。
「…っく…ぅ…ひっく…」
「もう、泣くな」
「…っく……サルファ…」
「…」
森の中に入り、さすがに走り続けることが出来なくなって、二人は歩いていた。
前を行くサルファの後を、泣きながらヴェインがとぼとぼと追いかけている。
昼間、森から街に向かうときに持っていた毛布も、魚を入れるための籠も、今はヴェインの手にはない。
2人の歩いた後に残る雪の上に転々とした赤い色は、靴を無くしたヴェインの片方の足から伝い落ちている。
ヴェインが靴を無くしたことに気づいたのは街を出た後だった。けれどそのために再び街に探しに戻る気にはなれず、森に、二人の過ごすあの家に帰ろうとしていた。
「…ごめん…サルファ…僕の、せいで…」
「無理して、今、話さなくていい」
振り返らず、立ち止まらず答えたサルファの後姿を見つめながら、ヴェインが首を振る。
「ううん…無理なんか、してない」
それは嘘だろう、そうサルファは思った。
今の自分でも、振り返らなくても分かる。
サルファが考える以上に責任を感じて、黒い毛皮の彼の傷の痛みを感じている。
そのとおり、軽い傷ではないことはサルファには分かっている。
だから、この少年に気取られるわけにはいかなかった。
「…。そうだな、街になんか行くからだ」
「……ごめん…」
背後で、ヴェインが萎縮したのを感じた。
自覚していても、それを面と向かって相手から告げられると堪えるらしい。
「そう思うなら、街に行くのは止めるんだな」
「……」
ヴェインからの返事がなかった。
半ば分かっていたこととはいえ、サルファはフゥと息を吐く。
そのとたん、足がよろめいた。
だが人間のように無様に転ぶことなく、体勢を立て直すと再び歩き始める。
しばらく無言のまま歩き続け、竿を見つけた川の傍まで来たとき、ヴェインがぽつりと呟いた。
「………ごめん…サルファ…」
それが、ヴェインが何度も繰り返すものとは違う意味を持っていると気づいたが、サルファは何も答えなかった。
川べり近くまで来たところで、サルファが不意に立ち止まった。
「サルファ…?」
突然立ち止まったサルファに、ヴェインが不安げに声をかける。
それには答えず、サルファはきゅっと金色の目を眇めた。
「まずいな…血の匂いか」
「え?」
「退いていろ。ヴェイン」
振り返らずヴェインに告げると、サルファは前の茂みに向かって姿勢を低くし、構えた。
しばらくすると、グルグルと言う低い唸り声がヴェインの耳に聞こえてくる。
「犬…?」
「バカ犬が。大方血の匂いでも嗅ぎつけたんだろう」
「ちょっ…サルファも危ないよ!」
「ヴェインよりましだ」
「そんなことないよ。サルファより大きいでしょ。それなら僕のほうが…」
いいながらヴェインもサルファの横に立つ。唸り声の主はもう間近らしい。だがまだ姿を見せない。おそらくは、陰から一気に襲ってくる気なのかもしれない。
「自前の武器も持たないで、何を言う」
「でも…っわあっ」
「―ヴェイン!」
サルファが呆れたようにそう言いヴェインが答えようとしたとき、2人が言い争う間に距離をつめていた犬が茂みからヴェインに向かって飛び掛った。
なかば反射的に跳び上がったサルファが、犬の首筋に噛み付く。
だが、もともと怪我をしていたせいで、すぐに振り落とされて雪の上に転がった。
「サルファ!」
ヴェインはすぐさま走りより、サルファを背にかばった。
サルファのいうとおり、彼が持っているような『武器』はヴェインは何も持っていなかった。
でも、サルファと一緒に戦えるようになりたかった。
護られるのではなくて、お互いに、お互いを護れるようになりたかった。
「…サルファの爪みたいに鋭くて、サルファの牙みたいに硬くて…」
自分にも、そんな武器があればいいのに。
そうしたら、あの時だって、サルファを護れたかもしれないのに。
物陰から一跳びで、鳥を捕まえた姿や、ヴェインをかばい、男たちに向かって飛び掛っていくサルファの姿がヴェインの脳裏に浮かんだ。
それと共に、手のひらが熱くなる。
『―――ヴェイン!』
「…えっ!?」
気が付けば、横たわっていたサルファの姿が無くなっていた。
かわりに、ヴェインの腕には黒い剣がまとわり付いている。
手の甲の中央に埋め込まれた朱色の石は、猫の目の瞳孔のような模様をもち、ヴェインが覗き込んだ瞬間、きゅっとそれを細めて見せた。
「ええ!?」
『何を呆けている。向こうに注意を向けろ』
「さ、サルファ…!?サルファなの!?」
思わず、石に向かって話しかけると、ヴェインの頭の中にサルファの声が聞こえてくる。
『お前がしておいて、何を言ってるんだ』
「僕?だってなにも僕は…サルファは大丈夫なの!?」
『この状態ならな…後で話してやる。襲われたくないなら向こうを向け』
「あ…っごめん!」
サルファのいうとおり振り向こうとして、ヴェインは剣に重心を取られ右に大きくよろめいた。その脇を、風を切って犬が横切る。
「わあっ」
『そこで逃げるな』
呆れたサルファの声が響く。
「ど、どうすればいいの?サルファ」
『…適当に狙って、振り回せば当たるだろう』
「…。適当ってどこ…」
『じゃあ、鼻先を狙え』
「わ…わかった」
もう呆れて何もいう気がないのだろうか。サルファの声はかなり投げやりだった。
それでも、ヴェインは逃げずに立ち止まると、唸りながら、狙いを定めるように近づいてくる野犬に向かって剣を突き出した。
犬はキャインッと情けない声をあげて退く。
「あ、あたった?」
『ああ。…どうでもいいが、ヴェイン。目は開けておかないと危ないぞ』
「ごめん…」
サルファに謝りながら目を開けると、それまで近づいていた犬がわずかに後ずさりを始めている。そして、ヴェインが一歩前に足を踏み出すと、さらに後退し、ついにはその場を立ち去った。
犬の気配が消えると同時に、ずるりとヴェインの腕から滑り落ちるように剣が融解し、その中からサルファが姿を現した。
「サルファ…ありがとう」
「ああ…」
力なく頷いたサルファの姿に目を向け、ヴェインが目を見開いた。
「サルファ?…それ…」
呟くヴェインの顔がみるみる青くなっていく。
「騒ぐな。すこし動いたから血が流れただけだ」
「さっきの、僕のせい…?」
「ちがう。その前からだ。心配しなくてもすこし休めば動ける」
「それじゃあ…あのときの…」
「……」
無言を返したサルファに、ヴェインの顔がゆがんだ。
「大丈夫だ」といっていたのもつかの間、ヴェインが川から水をすくって休んでいたサルファに声をかけた時には、サルファは体を起すことができなくなっていた。
横になって一時は収まったかに思えた出血は止まらず、ヴェインが止血のために巻いていた布もすぐに真っ赤に染まってしまっていた。
「サルファ…サルファ…」
泣きじゃくるヴェインは、必死で傷口を押さえて血を止めようとする。
だがじわじわと染み出すそれは瞬く間にヴェインの両手を真っ赤に染めてしまった。
「…う…ああぁ…止ま…止まらない…」
押さえても指の間から滲む血に、食いしばっていた口から声が漏れた。
ぼろぼろと雫がサルファの上に落ちる。
サルファが死んでしまう。
脳裏を掠めたその言葉をヴェインは必死で振り払う。
赤い色。
横たわるサルファの腹から滲み出すそれは、冬になる前サルファが見せてくれた狩の獲物を思い出させた。
澄んだ声で鳴いていた鳥の、はじめは柔らかく温かい体が、サルファの牙にかかって冷たく、硬いものに変っていく。
翼を投げ出し前足を伸ばして地面に転がったその鳥と、目の前のサルファの姿が重なる。
「いやだ…いやだ…そんなの…」
耐えられない。
『また』失ってしまう。
『また』、僕の、目の前で…っ!
「…あ…」
不意に頭の中に浮かんだその言葉に、ヴェインは体をこわばらせた。
淡く霞んでいた記憶が、急に鮮明な映像になって脳裏に映し出される。
あの人の声が、聞こえた。
『私の…願いを…』
そう、あれは…。
「サルファ。サルファ、お願い…」
半ば目を閉じて、荒い息をつくサルファに懇願する。
サルファが返事のように、うっすらと目を明けて、覗き込むヴェインを見る。
「サルファ、願いを…治してって、そう、思って。そう、僕に、言って」
涙を零しながら、必死で告げる。
これなら、助けられる。サルファを助けられる。
だって、僕は、『願いを叶えるもの』なんだから。
「サルファ…っ…」
一向に言おうとしない、あるいは言えないのか、サルファに焦れたようにヴェインが叫ぶ。
だが、ヴェインの声にサルファは耳を尖らせると、顔をしかめて起き上がった。
ふらつき、足元もおぼつかないまま少年の手を離れようとするサルファにヴェインが驚いて手を伸ばす。
「駄目!動いちゃ…」
ヴェインの言葉の通り、最初に立ち上がった場所から何歩も動かずサルファは再び雪の上に座り込んだ。
「…サルファ…」
「触るな!」
シャアッ!という鋭い声と共に、差し出したヴェインの指先に痛みが走る。
「サルファ!?」
「それに頼る必要はない。そんなものをつかわなくても、俺は死んだりしない」
思わず手を引いたヴェインの目を睨み、サルファは荒い息をつく。
つい先ほど、剣の中に取り込まれたとき、やっとヴェインの力がなんなのかわかった。
あまりにも強くて、だからこそ歪な力だ。
そして、それを使うことの出来るヴェインは力の全てを把握しきれていない。
そんな力を、それも短時間に何度も使わせるわけにはいかなかった。
「俺はお前に望んだりしない」
―――どうして。
『望まない』
そう、サルファに告げられた瞬間、ヴェインは目の前が真っ暗になった気がした。
自分には、その力があることはわかっていた。
傷を癒す力も、いや、それ以上のことも出来る力も。
それなのに今、傷を抱えているサルファは、それを望まないと言う。
たった一言でいいから望んでくれれば、すぐにだって治せるのに。
なんで?
なんで?サルファ?
望みを叶えることが、『僕』なのに…それなのに、望んでくれないなんて。
僕は…。
僕は…必要ない…?
それは…。
「…………嫌だ」
サルファと一緒にいる。一緒にいたい。
でもサルファは『僕』をいらないっていう。
どうすればいい?…ああ、そうだ…ずっと、前みたいに…。
「ヴェイン…?」
俯いていたヴェインの呟きに、いつもとは違う様子を感じ取りサルファは声をかけた。
だが、ヴェインは顔を上げず、そのままぶつぶつと何かを呟いている。
そして、不意に顔を上げると、まっすぐにサルファを見つめ、腕を伸ばしてきた。
その動きには、わずかな躊躇もない。
「ヴェイン…ッ…止せ…」
「駄目だよ。もう聞かない。…君の意志なんか関係ないんだ」
静かにサルファを見下ろし告げるヴェインの言葉には、それまでの気弱な懇願するような響きが無くなっている。
「おまえ…」
目を見開くサルファに、ヴェインは小さく首をかしげる。
「どうして止めるのさ。わざわざ痛い思いなんかしたくないでしょ?彼だって治してあげるって言ってたのに」
言いながら、ヴェインは赤い色に染まった自分の指先を見た。
そこには先ほどサルファの爪が付けた一筋の傷がある。
自らを『彼』と言ったヴェインを、サルファが荒い息のまま睨んだ。
ヴェインの周りを漂い始めた淡い光を反射し、瞳が淡い緑に染まる。
「…今の、ヴェインには必要ない力だ…」
「それが間違いだよ。『僕』はそのためにいるんだから」
サルファの目を見つめ返し、ヴェインは目を細める。
生まれた意義そのままに、ただ望んでいた。
望むこと望みを叶えることが僕の存在意義なのに、サルファはそれを拒んだ…そう、望んだ。
「それなのに…ひどいよね。彼までそれに納得しちゃうんだから」
「ヴェイン…」
「君と一緒にいたいからって、僕を忘れようとしてる。でも、君を治したいとも思ってる」
忘れるくせに…、そう言いながらヴェインはサルファに向かって手を突き出した。
「そうして、僕を呼ぶんだ。君を治すために」
「…ッ!」
ヴェインが言い終わると同時に、サルファの体が光の中に包まれた。
ぐるりと体を囲んだ光の環から逃れるためサルファは体を起そうとしたが、その前に空中に持ち上げられ身動きが取れなくなる。
「だからさ、ちょっとだけ意地悪してもいい?大丈夫。彼の望みどおり、ちゃんと傷は治すから」
―― そういえば、君は治して欲しくないんだっけ。ごめんね?
ヴェインはサルファの顔をのぞきこみ、少しだけ首をかしげて笑うと、手を黒猫の腹にかざした。
熱が腹を中心に広がり、それと同時に体を駆け巡った感覚に、サルファは呻いた。
めまぐるしい勢いで傷が治っていく。
自然ではありえない速度に、生き物のもつ感覚がそれを拒否しようとする。
だがヴェインのてのひらから伝わるマナの力がそれを抑えつける。
「…ヴェ…イン…ッ」
「おやすみ。…サルファ」
傷を癒した光が消えていく中かすかに聞こえた声に、サルファは歯軋りをしながら意識を手放した。
雪は数日経つとすっかり溶けてしまった。
小春日和の光が川面を白く輝かせている。
「ヴェイン」
ヴェインが自分を呼ぶ声に振り返ると、ずっと傍にいてくれる黒い毛皮の友人の姿が目に入ってきた。
「サルファ」
「また、ここか」
「…うん…」
答えると、サルファが隣に腰を下ろしてきた。
川べりの岩の上。
まだ暖かかった頃、ここで顔を洗っていたヴェインを眺めていたサルファのお気に入りの場所だ。
「サルファ、ありがとう…」
唐突な言葉に驚いたように、サルファがヴェインの顔を見上げた。
「なんだ。突然」
「ううん…この間のこと思い出してたんだ。サルファがいたおかげで、助かったんだなって思って…」
ヴェインがそう言うと、サルファはふいっと視線をそらした。
照れてるのかな、ほんとにサルファのおかげなのに。
そう思いながら、ヴェインはまた水面に目を向ける。
街から帰ってきたとき、途中の森で野犬に襲われそうになったが、サルファ『が』不思議な力を使って追い払ってくれた。
艶々した、サルファの毛皮みたいに黒い剣。
ああそれとも、サルファが変化したせいで黒いのかもしれないけど。
それに、その前に負っていた怪我も翌朝には治してくれていて。
「前にも聞いた」
「うん…あと、サルファも怪我がなくてよかった」
「…」
気弱な笑みを浮かべたヴェインを見上げ、サルファは彼に気づかれないようにそっと目を眇めた。
あの夜が明けた後、目を覚ましたヴェインの記憶がところどころ抜け落ちていることにサルファは気づいていた。
街で受けた怪我のせいもあるのだろうが、記憶が混乱しているらしく、夜に自分がマナの力を発揮した出来事も、サルファ『が』起したのだと思い込んでいる。
…だが、サルファはそれを訂正しようとは思わなかった。
「おい」
「ん?なに?」
「ところで、いつまでこの寒い中にいる気だ?」
「…ああ。ごめん。じゃあ、帰ろうか」
言いながら立ち上がり足元の埃を払う。
するっとその脇を抜け、岩から土の上に降りたサルファは首を後ろにヴェインを振り返る。
後を追うように岩の上から降りたヴェインは、サルファに近づくとその体を抱き上げた。
「…」
「あれ、怒らないの?」
「…たまにはいい」
不機嫌そうに告げたサルファにヴェインは顔をほころばせると、ふかふかした首筋に顔をうずめる。
柔らかい温かい感触に、安堵の息をつく。
なぜか、理由はわからないが、サルファが傍にいてくれることが今はとても嬉しかった。
【終】 |