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「もう、わずらわしいわね…!」
何度目になるかわからない。
まるで引き止めるように足に絡んだつる草を、イゾルデは律儀にしゃがんではずした。
その足元は暗い。
春をすぎたばかりで日はまだ高い時刻のはずなのだが、厚く茂った木の葉が陽の光を閉ざしているため、どこも薄暗いのだ。
時折、葉の間から木漏れ日がさすこともあるが、辺りを照らすには足りない。
つる草が絡んでいた白い足のところどころに引っかいたような薄い筋が残る。
年頃の女性が気にするように、イゾルデもそれに気づいて思わず眉をひそめた。
(…パンツにすればよかった…)
いまさらなのだが、山を登る前に服を着替えなかったことが悔やまれる。
しばらく森の中を歩いていくと、視線の先に、建物の敷地をあらわす木の柵を見つけた。さらに柵の前には細い小川が流れている様子を見て、イゾルデはやっと目的の場所にたどり着いたことを知る。
だが、建物の入り口まで歩いてきた時、イゾルデはその荒れた姿を見て愕然とした。
以前…半年ほど前だ…訪れた時よりも、荒れ方は酷くなっている。
そしてそれはこの建物の主の心情と同調しているように思えて、イゾルデは無意識のうちに震えた体をぎゅっと抱きしめた。
それでも、このまま馬鹿のように入り口に立っているわけにはいかない。
入り口の金具に手をかけて、イゾルデは大きくその扉を開いた。
抗議するような大きな軋みをあげて、古い扉はゆっくりと開かれる。
薄暗い光が、さらに暗い室内に差込み、床の埃がうっすらと舞った。
「テオフラトゥス」
最初の呼びかけに返事は返らない。
「テオフラトゥス、いるんでしょ?」
「ニャ――」
2回目の呼びかけに、返事は、2階から返ってきた。
ととと…という軽い音を立てて、目の前の階段から1匹の猫が下りてくる。
暗い天井近くから目の前の階段に降りてくるまで、黒い毛皮の姿は室内の闇に溶け込み、やっと見えたと思っても、その白い手足と尻尾がなければ、見逃してしまいそうになる。
「サルファ」
まるでイゾルデを出迎えるように傍に寄ってきたサルファは、物言いたげにアーモンド形の目でじっと見つめてきた。
「テオフラトゥスはどこ?」
まるで訪問者への礼儀というように、するりと足に体を摺り寄せたサルファを抱き上げながらイゾルデがたずねる。
しかし抱き上げられたとたん暴れ始めたサルファに胸を押され、その痛みに思わず手を緩めてしまった。
彼女の胸を蹴って身を捩るように体を反転させその腕から逃れたサルファは、そのまま何事もなかったかのように階段のほうへと歩き出す。
その仕草を見れば、彼女の探す人物…サルファの飼い主のいる場所へ案内しているようでもある。
だが、胸に手を置き、その後姿を見つめながら、イゾルデは小さな声で呟いた。
「…そういうとこだけ、飼い主にそっくり。痛みだけ与えて…傷は残してくれないのね…」
その小さな声が聞こえたわけでもないだろうに、階段を上りかけていたサルファが、ピクリと耳を揺らす。
振り返り、琥珀色のまん丸な目で見つめ返され、イゾルデは小さく苦笑した。
「いいえ。…なんでもないの」
痛みを感じるのは、自分。
彼はそれに気づくことなく、彼のほうから、『傷』つけられることはない。
それほど、私の存在は、彼にとって意味のあるものでは、ない。
「彼は、上ね」
問いかけに、サルファは一声啼いて再び歩き出す。
イゾルデは開け放ったままになっていた扉を閉め、サルファの後を追い暗い部屋を進んでいった。
2階の端の部屋の扉が半端に開けられ、そこから小さな音が響いていた。
以前、彼を訪れた時と同じ光景。
違うのは、まわりに積もった埃の量ぐらいだろうか…、歩くたびに床と靴との間に、沈みこむような感触を感じた。
するりと、イゾルデに先んじてサルファが部屋の中に姿を消す。
それを追いかけるように、イゾルデも扉に手をかけて…中に入った。
声はかけない。
かけても返事が返ってこないと半ばわかっていたからだった。
室内は、錬金術の道具が所狭しと並べられた…いわゆる工房になっていた。
いや、工房…という古式ゆかしい言葉はもう似合わないかもしれない、個のものではなく、まるで複数のそれを併せ持ったような…とてもたった一人で研究を行う場所とは思えない規模のものだった。
奥の壁際に大きな円柱状の装置が置かれている。
幾つもの管とそれにつながるまた別の装置。足元を支える土台にも仕掛けがしてあるらしく、何かの投入口らしい金属の板がいくつかはめ込まれていた。
そして、その中に浮かんでいる『モノ』に、イゾルデの視線が吸い寄せられた。
人の…幼い子供の姿をした、人工生命体。
…もう何度…同じ姿を見ただろう。そして、何度それが消えたと知っただろう。
そのたびに、彼の心が傾いてゆくことも、わかっていた。
でも彼は、それをけして諦めないことにも、気づいていた。
「テオフラトゥス」
イゾルデに背を向け、一心に調合台に向かっている一人の男に向かって、声を掛ける。
「…テオフラトゥス!」
男は振り向かない。
まるでイゾルデの声が聞こえていないかのように、ぶつぶつと何かを呟きながら、フラスコに粉末を取り、何かの液体と混ぜ合わせている。
「テオフラトゥス。聞こえているんでしょ?…返事くらいしたらどうなの」
「…うるさい…」
ぼそり、と声が返ってきた。
からからに乾いた枯れ木をすり合わせたような、ささくれた艶のない声。
イゾルデとそれほど年が離れていないにも関わらず、それはまるで老人の声だった。
ぞくり、とイゾルデの背中を悪寒が走る。
それを押し殺し、なんでもないように装った。
「…聞こえてるんじゃない」
「…はっ…いちいち返事などするほうが面倒だ…で、何をしに来た?」
「何って…様子を見に来てあげたのよ」
口ごもりながら告げたイゾルデに対するテオフラトゥスの返事は、ひきつったような笑い声だった。
「何がおかしいの?」
「いや…くくっ…様子…ねぇ…ふっ…ははは」
「テオフラトゥス!?」
「…君が見たところで、私のしていることは一部も理解できまいよ…いいや…誰にも、な」
カチャリ、とテオフラトゥスの手の中でガラス器具が甲高い音を立てる。
「…だが、私は…」
出来上がった試薬を手に、テオフラトゥスは部屋の奥にある装置にゆっくりと歩み寄り、持っていた試験管をガラスの筒の下にある装置にはめ込む。
ぱちんと音を立てて蓋が閉じると、それに繋がっていた細い管を通って、先ほどの試験管の中身が筒状のガラスの容器の中に溶け込んだ。
試薬の淡いオレンジ色が拡散して見えなくなる。
と、同時に中にいたものが暴れ始めた。
四肢を引きつらせ、痙攣を起したように体を震わせる。
おおきく息を吸い込むように口をあけるが、その者を閉じ込めた容器は液体に満たされているため、どんなに口を開いても、空気の泡すら浮かんでこない。
まるでおぼれているかのように、指を曲げ、体を曲げ、あがいて、どうにかしてその体を襲う苦痛から逃れようとする。
その様は、かつて錬金術士たちがマナの力を取り出すため、かれらに行ったという『実験』を髣髴とさせた。
しかもなまじ幼い人の姿をとっているため、それは目を背けたくなるような苦しみ方だった。
ただ、人と違うとわかるのは、苦しみ始めたと同時に体のいたる部分が発光している点である。
蒼、赤、緑…さまざまに点滅しながら、文様のように肌の上に光を浮かばせる。
「…苦しいだろう?ヴェイン。すまないなぁ…だが、こらえてくれよ…もう少しだからな…」
つややかな緋色の髪を揺らめかせ、液体の中それがあえぐ。
意識の無い目がぼんやりと正面に向けられ、その顔をガラス越しに撫でるように、テオフラトゥスの手が触れる。なんども、なんども。
まるで愛しい子供に向かって話しかけるような優しい声と仕草に、イゾルデは彼の行動との落差に、動けなかった。声も、発することは出来なかった。
しばらくして容器の中でぐったりとそれが動くことを止めると、テオフラトゥスはもうひとつの試験管を手に取った。
中身は透明な液体。それにナイフを手に取った彼は無造作に自分の手を切り、滴った血をその中にくわえた。
「テオフラトゥス!」
いきなり自分の手に刃を付きたてたテオフラトゥスにイゾルデがたまらず声を上げる。
試験管を再び装置にかけながら、彼は投げやりな口調で背後の声に的外れな答えを返した。
「ああ。中和剤だ。…一度に反応を起こすと、素体がもたない」
止血もしていない掌から、ぱたぱたと音を立てて床に血が滴る。
見れば、片方の袖が黒く染まっていて、何度もそれを繰り返しているとわかった。
「まって。いくらなんでも止血くらい…」
傷をさらしたまま別の作業に取り掛かろうとするテオフラトゥスに、イゾルデが近寄る。
その腕を取ろうと差し出した手は、緩慢に振り払われた。
ぴっと、小さな音を立てて血が飛び、イゾルデの頬に点々と赤い模様を作る。
「私には、必要ない」
その日そこで初めて、イゾルデはテオフラトゥスと目が合った。
顔を見た、といったほうが正しいか。
ざんばらに伸びた髪は艶を失い、かみそりを当ててない頬や顎には無精ひげが伸びている。
病人のように頬がこけた顔は青を通り越して白く、その中で目だけが充血して真っ赤になっていた。
絶句して立ちすくんだイゾルデに、彼は笑い掛けている。
それは、すでに狂気に染まったものだった。
【終】
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