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冬の十六夜の月が、澄んだ光を投げかけている。
昼間の騒がしさが去りようやく静かになった男子寮の屋根の上で、サルファは斜めに傾いたその月を見上げていた。
その傍らに、飼い主である少年の姿はない。
無言のまま、振り返ったサルファの首元でしゃらん、と涼やかに鎖が音を立てる。
「おや、先客がおったか」
サルファの視線の先で、笑みを含んだ声とともに白い姿が浮かび上がった。
白銀の体毛が月の光を弾き、さらに輝いて見える。
深い青とも緑ともつかない瞳を長いまつげの奥に湛えてサルファを見返すと、マナは宙に浮かんでいた体を屋根の上に降ろした。
そのとたん視線をはずし、すっと立ち上がったサルファをマナが引き止める。
「場所を変えずともよかろう。おもえばおぬしとは一度もまともに口を利いたことがなかった」
「……」
「わらわの言葉がわからぬわけではあるまい?」
「…そうだな」
答えてサルファは座りなおす。
どちらかというと、サルファはこのマナが苦手だった。
平穏を好むサルファと違い、このマナは退屈だからといたずらに乱を呼び込もうとする。
サルファ自身や飼い主であるヴェインに関係のないところでならかまいはしないが、同じアトリエの小僧とこのマナが契約しているために、必然的に一人と一匹は巻き込まれていた。
(…そういえば…)
ふとあることを思い出して、サルファは目を細めた。
しばらく前から、気になっていたことがある。
この機会に聞き出してみるのもいいかもしれない…。
そう考えたサルファの思いを読み取ったかのように、マナが唐突に笑い出した。
おかしくて、堪えきれなくなったというような、小さな笑い。
「…」
「おお、これは失礼した。ふとおぬしたちと初めて会ったときのことを思い出しての」
胡乱げな視線をなげかけられて、マナはさらりと言い放った。
「マナの身でありながら、他人の契約に首を突っ込もうとするなど、ずいぶん間の抜けた話だと思っておったが…知らなかったとは、な」
「やはり気づいていたのか」
「気づくというのは間違いじゃな。そうだとわかっておっただけじゃ」
きっと、マナが人の姿を取っていたとすれば、その顔に浮かんでいるのはひどく人の悪い笑みだろう。
不機嫌そうにサルファは鼻を鳴らした。
案の定だ。
「…ヴェインに、それを言わなかったことを感謝するべきか?」
「それもおかしい。なぜわらわがそのようなことをする?」
「…」
「マナとわかっている者に向かって、おぬしはマナかと尋ねるようなバカな真似をするつもりはないわ」
ただ、周りの人間は気づいていなかったそれも、ヴェイン自身があえて告げないでいることなら、傍観していようと思ったのは事実だ。
秘密は、多いほうが面白い。
そうそれに…すぐに告げたのでは面白くない。
時が熟すのをまたなくては…今回のように。
「悪趣味だな」
「ほほほ…」
苦虫を噛み潰したような、そんなサルファの言葉にもマナはここちよさそうに笑っただけだった。
「他のものも含め、お前の契約者も今回のことで苦しんでいる様子だったが?」
「ああ…不憫に思うたが…それでもずいぶんと楽しませてもろうた」
生半可のことでは、見られぬからのう…。
呟きは小さかったが、隣に座って耳を済ませていたサルファには十分聞こえるものだった。
「小僧と一緒に戦っていた時と、あまりに態度が違う気がするがな。…それは本音か?」
「それはそれ、これはこれ。別物よ。だがそれも皆丸く収まった。重畳ではないか」
「確かに」
マナの後半の言葉に答えて、サルファがしぶしぶ頷いた。
そう答える割に暗い声に、マナがゆっくりとサルファのほうを見た。
「ときに、のう。元契約者殿」
ぴくりとサルファの耳がマナのほうに向く。
「ヴェインは人になったと思うか?」
「…。俺の言葉がわからなくなっているんだ。そうなんだろう」
「そうか…おぬしはそう思うのだな」
「……」
「言い換えようか。…もう一人の、あの中でであったヴェインは消えたと思うか?」
その問いに対するサルファの沈黙は長かった。
傍らのマナも、答えをせかすようなことはせず、ずっと待っている。
ゆらり、と正面の闇を見つめていたサルファの目が細められた。
「…さあな…」
「それでは、先ほどの答えと矛盾するのではないかえ」
くくっと、喉の奥でマナが笑った。
ヴェインをだしに遊ばれているような気がして、サルファは痺れを切らして立ち上がった。
ふと、遠くで名を呼ばれた。
それにはマナも気づいたらしい。
「呼んでおるな」
「そうだな」
昼間に続けられている構内の片づけで、飼い主の少年は疲れきって眠っていると思っていたのだが、目を覚ましてしまったらしい。
自分がいないことに気づいて探している。
きっと、あいつのことだ。
この寒い中を上着ひとつ持たないで、歩き回っているに違いない。
「行くのかえ?」
「呼んでるからな」
首を小さくかしげてたずねるマナに短く答えて、サルファはとんっと屋根をけった。
サルファの後姿を見送ったマナも、しばらく月を見上げ不意に口元を引き上げるとすぅっと体を光の中に溶け込ませた。
あとには、残りわずかになった月の光が残された。
【終】
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