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夕刻。
マックスに呼ばれて、リーゼ宮の外に出ていたフィーが、フェルトのいるヴィーゼの部屋を訪れた。
「ヴィーゼが倒れたと。それから新しい情報が入ったという話を聞いたんだ」
そして「ヴィーゼは?」と問うフィーにフェルトが答える。
「今は、薬が効いて眠っている。倒れた原因は疲労と睡眠不足…少なくとも2・3日は休ませる必要があるって」
「あと…フェルトの話だと、クレーエの村に秘密の店があるらしいってわかったんだ」
氷の解けてしまった桶を新しいものに変えるため、同様に部屋を訪れていたノインが、続けてフィーの言葉に答えた。
「そうか…」
「でもヴィーゼがこんなんじゃ、出発するわけにはいかないだろ」
倒れた直後よりも、幾分頬の赤みは消えたが、苦しげにひそめられたヴィーゼの眉はそのままだった。
「だが、今は一刻もおしい状態であるのには違いない」
「…」
冷静なフィーの言葉に、フェルトとノイン、二人が沈黙する。
グレイやポウに、クレーエの村のについて話したときにも、グレイは言葉には出さないがやはり表情を曇らせていた。ポウはヴィーゼを優先させるべきだといってはばからなかったが。…どちらも、重要であることには違いない。
「…一つ、方法がある。フェルト」
沈黙したままのフェルトに向かって、フィーが声をかけた。
その言葉に、フェルトがかすかな希望を持って彼女の顔を見つめると、フィーはフェルトを見つめ返し淡々と言葉を続けた。
「ただ秘密の店というなら、なにも全員でそこへ行く必要はないのだろう?」
「!」
言葉の意味に、ノインが目を見開く。
「…ヴィーゼを置いていくって言うのか!?」
フェルトも、フィーの予想外の言葉に声を高くする。しかし、思わず彼女の方へ身を乗り出したフェルトを、フィーは続く言葉で制した。
「早まるな。ヴィーゼ一人残すとは言っていない」
ふとフィーはフェルトからノインへ視線を移した。
「ノインは、騎獣に乗ったことがあるか?」
「え?ああ、小さい頃何度か乗ってたし…今も扱えるよ」
唐突な質問の理由がわからないまま、困惑気味にノインが答えると、フィーは頷いた。
「好都合だ。これからちょっと付き合って欲しい。…フェルト」
「なに?」
「フェルトはこのまま、ヴィーゼに付き添っていてくれ。クレーエへは私たちが行く」
リーゼ宮を帝国の手から取り戻した際、何かに役立つだろうと乗り手を失った近衛兵や救護兵の鳥をシルムシルトの団員たちが確保していた。
そして帝国とフィーたちの住む地方では騎獣の調教が若干異なるため自分たちの乗りやすいように再び調教を行い、それが終ったと知らせを受けたフィーは今日、その様子を確認してきたのだ。
クレーエまで人の足だと丸5日はかかる。しかし、騎獣を使えば約3分の1の時間でたどり着ける。往復でも4日あれば十分だろう。
元は軍用であるのだから、潰さぬ程度に夜を徹して走ることができればもっと早くなる。
だがその日数は…ヴィーゼの体を休ませるのに、ちょうどいい頃合じゃないか?とフィーに言われて、フェルトは言葉を失った。
「今からその準備を始める。すぐに紙とペンを用意させるから、フェルトは今足りないものが何なのか書き出しておいてくれ。それを持ってさがしてくる。ノインできれば明日の早朝には出発しておきたいのだが、できるか?」
てきぱきと指示を出すフィーの姿に、フェルトは止めていた息をようやく吐いた。知らず、握り締めていた両手をほぐすように広げる。
「ありがとう、フィー」
フェルトの口をついたその言葉にフィーがちょっと首をかしげる。
「お互い様だ。それに…」
「それに?」
「ただ待っているだけではヴィーゼが回復したとき、自分が寝込んだせいで材料集めが後れたと気に病むだろう?」
ほんの少し目を細めて、フィーは言葉を続けた。
「必ず、その店を見つけてくる。まかせておけ」
もし目を覚ましたらヴィーゼにも、そう言っておいてくれとフィーはフェルトに頼むと、ノインをつれて部屋を出て行った。
内宮に近い部屋は、その場所の特殊性もあり人が多く出入りする場所ではない。人の気配の遠いひっそりとした室内に、ほんのわずか乱れた吐息と、時折小さな水音が響いていた。
ベッドに横たわるヴィーゼの傍らに置いた椅子に座り、フェルトは黙ってその寝顔を見つめている。
普段は穏やかな人当たりのよい表情を浮かべていることの多いフェルトだが、今幼馴染の少女を見つめるその表情から、何の感情も読み取ることができない。
時折少女の額に置かれた布を取り替えるとき以外、微動だにしないその姿と表情だけを見れば、まるで一体の彫像が置かれているようだった。
動きの極端に少ないその部屋で、時間を伝えるものといえば、桶の中の溶けかけた氷と窓から差し込む日の光だけだった。
その光も、もうすぐ消えてしまう。
赤い、夕暮れの光が低く窓の向こうから差し込んで、窓の桟の模様を床に長く描いている。
「…ん…」
窓の向こうを数羽の鳥が飛んで、差し込んでいた光の帯がちらちらと途切れる。光の欠片を頬に受けて、少女がわずかに喘いだ。
その声に、フェルトははっと目を見開く。
「…っ」
名前を呼びかけて、けれどその喘ぎが、覚醒のものではないと気づくとフェルトは口を閉じた。
「…ぅ…」
それまで穏やかなとはいえないものの、落ち着いた表情で眠っていたヴィーゼの眉が苦しげに寄せられていた。
また…うなされている。
やりきれない気持ちで、フェルトはその顔を見つめる。
その夢の内容を知ることは、ヴィーゼ以外に誰もできない。
けれどもその表情から、それが彼女にとって好ましいものではないことはわかっていた。
わかったからといって、フェルトにできることは限られたものでしかなかったけど。
「うぅ…!」
ヴィーゼの声が高くなり、何かから逃れるようにベッドの中で体をよじる。
「ヴィーゼ…っ」
たまらずフェルトが声をかけた瞬間、少女がぱちりと目を開いた。
「きゃあああっ!」
「ヴィーゼ!」
悲鳴をあげてベッドから飛び起きたヴィーゼにフェルトがその肩を掴む。
その瞬間、はっと我に返ったように体を震わせたヴィーゼは目の前にいる人物に気づいた。
「フェルト!」
大粒の涙を浮かべて、縋りつくようにフェルトのシャツの胸元を掴む。
「フェルト!イリスが…イリスが石に…!」
「ヴィーゼ、それは夢だよ」
フェルトの言葉が耳に入っていないのか、涙を頬に伝わせながらヴィーゼは言い募る。
「ニスダールオーブでも元に戻らなくて!何度試しても、ダメなの!…フェルトの時みたいに…」
「ヴィーゼ」
『フェルトの時のように』
その言葉を口にしたヴィーゼが表情をゆがめる。
フェルトの石化を解くために、最初ヴィーゼはメルクオーブを使った。しかし、それまでのマックスやエーゼリン教会長では効果があったにもかかわらず、彼の石化は解かれることが無かったという。そのときの様子を、フェルトは彼女と共にいた仲間から聞いていた。
同時に苦い思いが、フェルトの胸を満たす。
結局自分は、いつでもヴィーゼを泣かせてしまう。
泣かせたくないと、そんな思いをさせたくないと、思っているのに。
幼い頃に誓ったその言葉を守ることができたのは何度だろう。
守れなかったほうが本当は多い。
…俺がベルクハイデにむかうときも、知らないところできっと泣いていた。
笑って見せたその目が潤んで真っ赤だったから。『気づかない振りをして』と、彼女の赤い目がいわなければ、あんなふうに別れたりはできなかった。
そして…俺が石になっている間もきっと…。
一番辛かっただろう時に、一番苦しかっただろう時に、一番俺の助けを必要とした時に、俺は、何もできはしなかった。
「…イリス…っ」
俯いたヴィーゼは嗚咽に似た、苦しげな息と共に言葉を紡ぐ。
色が白くなるほど強くシャツを掴んだ手が震えている。
フェルトはそんなヴィーゼを胸に抱きしめた。
胸元にヴィーゼの頭を抱き、力の入らない体を支えるように背に手を沿わせ、ぎゅっと、その腕に力を込める。
「…大丈夫だ」
そして、いまだ半覚醒状態に近いヴィーゼにも、はっきりと聞こえるようにフェルトは耳元近くで言葉を紡ぐ。
「イリスは、大丈夫だ」
フェルトが告げた瞬間、その腕の中で目を見開いたヴィーゼだったが、言葉が続けられるに連れ、その口から小さく嗚咽が漏れた。
「俺が、必ず無事に取り戻す。だから、大丈夫だ。ヴィーゼ」
涙を、声を、押し殺すようにしていたヴィーゼの声が、すこしずつはっきりとしたものに変わる。そして、わあっと声を上げて泣き出した。
胸に縋って泣くヴィーゼを抱きしめたまま、フェルトは目を閉じる。
『イリス』
彼女が今最も心を砕き、気にかけている少女。
交わした日記が語る、ヴィーゼの言葉の端々から、少女への愛しさがフェルトにも伝わっていた。だからこそ…。
「必ず、助け出すから」
そう、自らへも言い聞かせる。
これまで自分が受け止めることのできなかった彼女の涙を、償うということではない。
ただこれ以上、辛い涙をヴィーゼに流させたくなかった。
それが誰のためのものであっても。
日の没した薄暗い部屋の中。
ヴィーゼの泣き声がやむまで、その体を抱きしめたまま動かないフェルトの姿があった。
【終】
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