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いきなり呼び出された城の一室で、皇帝が呼んだ『瞬弟』が、己のもう一つの名になって数週間。
ケイオスはその日ある貴族の屋敷で催された舞踏会の警備の任についていた。
本来ならばその仕事は担当のものが別にいるのだが、皇帝が選んだ『瞬弟』を眺めようと主催者がわざわざ名指しでケイオスを呼んだのだという。
くだらない。
ケイオスはそう思いながらも、形だけは職務についていた。
そのケイオスが選んだ警備の場所は、人がほとんど来ることのない、広間から離れた棟が囲む庭園の傍。騒がしい場所を好まないケイオスにとってそこは貴族の屋敷であるということさえ除けば心地よくすら感じる場所だった。
本来ならこの時刻には、すでに妹の待つ宿に戻っているというのに。
朧ににじんだ空の月を眺めながら、ぼんやりと考える。
朝いつもどおり髪を結ってやりながら「『舞踏会』の警備で遅くなる」とケイオスが伝えたとき、リエーテは兄の体を気遣いながら、『舞踏会』という響きに目を輝かせていた。
彼女が思うほど、実際のものは楽しいものではないとケイオスは思っているのだが、帰ったときの土産話として、少しくらいは話してやってもいいかと考えている。
(あと数時間か…)
月の角度を見ながら時刻に見当をつける。
警備は会の間のみ、それさえ終れば何を言われようとケイオスはすぐにリエーテのもとに帰るつもりだった。
「こんばんは」
不意にかけられた声に、ケイオスは振り返った。
先ほどまで、いや今でも声をかけられなければそうとは信じられなかったが、気配がなかったテラスに、一人の女が立っていた。
宵闇に溶け込みそうな、深い紫のドレス。
結い上げることが流行の髪は長くたらしたまま、同色のリボンで緩やかに整えたそれに、首元を飾るものと同じ真珠がとめられている。
「よい夜ですね」
にっこりと微笑む様は、多くのものが思わず見惚れてしまうような魅力的なものだった。
しかしケイオスは、その表情に気を取られることなく、注意深くその行動をうかがっている。
明らかに金のかかった服装を見れば、この夜の舞踏会に出席した貴族の娘だと予想はつく。
けれども軍人である自分にも気配を感じさせないまま、ここまで近づくことが出来る者をケイオスは知らなかった。
それに、『瞬弟』の名を皇帝から押し付けられるまで『殺人鬼』と呼ばれていたケイオスに向かってこうまで気軽に声をかけてくるものもいない。
供もつけず、夜のテラス…警備の者が立つような場所まで来る物好きも皆無だ。
警戒するケイオスに気づかぬ様子で、女は滑らかにドレスの裾をさばいてすぐ傍まで近づくと、その顔を見上げた。
女が動く間もその周囲に音は立つことなく、また気配もない。
(…本当に生きた女か?)
幼い頃に大人たちから聞いた怪談が頭の隅をかすめ、くだらないと思いながらも、ケイオスは思わず女の足元に目をやった。
女の足はドレスの裾に隠れて当然ながらわからない。
あるかもしれないし…無いかもしれない。
「どうかされました?」
まるで童女のように可愛らしく小首をかしげて、女はケイオスの顔をうかがう。
自分に向かってかけられるいくつもの言葉に答える必要はあるのか?
もしこれが生きたものではないのなら、他の者からはこの女の姿が見えているかどうかわからない。
ケイオスは何もない空間に向かって言葉をかけている己の姿を思い描き、その奇妙さに内心顔をしかめる。
…それを言ってしまえば、なぜ自分に女の姿が見えているのかという疑問も当然あるのだが、あえて考えることを避けていた。
無言を貫き視線を合わせようとしないケイオスに、女はくるりと体の向きを変えてその正面に立った。
朧月の淡い光が、紫銀色の髪に当ってぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせている。
その様が余計に女の存在を現のものから遠くしていた。
「おまえは…」
…誰だ?
そう尋ねようとして、ケイオスの立つテラスに面した庭園の木々の向こうが騒がしくなった。
音が近づく気配をケイオスが感じたとき、振り向き彼と同じ方向を見つめた女がふわりと身を翻す。
女の行動にわずかに驚きその向かう先に目を向けかけると、茂みの向こうから姿を見せた警備の兵士がケイオスの姿を見つけ「うわっ」と声を上げた。
今回の舞踏会は皇太后主催ということもあり、警備は通常のものよりも厳しくなっている。当然配置される警備のものも多く、普段ならばケイオスもかりだされていない。
視線を正面に戻し、ケイオスは先ほど声を上げた兵士たちを眺めた。
「どうかしたのか?」
その中に、比較的折り合いのつけやすい男の姿を認めて、ケイオスは珍しく自分から声をかけた。
その呼びかけに、声をかけられた男は肯定するように一つ頷いてケイオスの言葉に答える。
「こちらに不審者が侵入しているという情報がはいったのだが、何か気づかれなかったか?」
『不審者』という言葉に、ケイオスの頭の中を先ほどの女の姿がよぎった。
しかし、生きている者かどうかわからないものを数に数えなくてもいいだろうと勝手に結論付けて、短く返答する。
「いや」
「…そうか。では今後、注意して見ていてくれ」
その答えは半ば予想していたのだろう、男はケイオスの返事に再び頷くと、周囲に散った同僚を追うように姿を消した。
再びケイオスの周囲を静寂が囲む。
それまでいたテラスの端から庭に下り、密な芝に足先を深く沈みこませながら、ケイオスはテラスの白い柱に背を軽く預ける。
腕を組み、一度目を閉じた。
ほんのわずかな時間だったにもかかわらず、次にケイオスが目を開けたとき、その傍には再び女の姿があった。
初めて姿を見せたときと同様ふわりと気配なく現れた女に、ケイオスは目を眇める。
一度ならず二度までも気配を察知させなかった女を、ケイオスははっきりと生きている者ではないと決め付けた。
「ありがとうございます」
急にケイオスに向かって礼を言ったくだんの幽霊はにこにこと笑っている。
妹を除き、ほとんど人から言われることのない言葉にケイオスは露骨に顔をしかめる。
「何に対する礼だ」
無視してしまえばいいのだが、その言葉は癇に障った。
やっと答えた、けれど愛想の無い男の言葉に、女は笑顔を崩すことなく話しかける。
「私のことを先ほどの方々におっしゃらなかったでしょう?」
「…言う必要がなかったからだ」
彼らが探すのは生きている者。死んでしまっている幽霊ではない。
その意味をどう理解したのか、笑みを浮かべた顔をさらに嬉しそうにほころばせる。なお嬉しげに笑む女の考えがわからず、ケイオスはその顔をまじまじと見つめた。
と…。
「あっ」
女の顔に驚きが浮かぶ。
それと時を同じくして、ケイオスは背後を振り返った。
視線の先、茂みの影に見知らぬ男の姿を見つけ、不意に理解する。
腰に剣を佩いた姿からも気づく。先ほどの警備の者が探していたのは、この男だ。
男は二人の姿を認めた瞬間、狼狽したように数歩あとずさったが、不意に視線を定めるとケイオスの知らない異国の言葉をわめきながら、二人に向かって切りかかってきた。
しかしその切っ先が彼らに触れるよりまえに、ケイオスの剣がすでに男の胴を薙いでいた。
「今度は消えなかったな」
その場に残ったままの女に向かって、ケイオスは背中越しに声をかけた。
振り返れば、うっすらと口元に笑みを浮かべ、落ち着いた様子の女の姿がある。
幽霊であっても、元は貴族の娘…しかも妙齢に見える姿に、少しは怖がるかと思ったのだが、ケイオスに負けず劣らずの落ち着きに内心驚いていた。ただその笑みは、それまでのものとは違い、どこかひんやりとしたものを感じさせる。
「隠れる必要がありませんもの」
「さきほどはそうではなかったか」
「…今は、誰もいませんでしょう?」
にこやかに、華やいだ笑顔を向けられ、ケイオスはわずかに困惑したように眉をしかめた。
彼女が見えているなら、先ほど命を奪ったこの男の幽霊が見えてもおかしくは無いのだが、その言葉とおり、彼らが一緒にいたことを知るものはお互い以外にいない。
唯一知っていたものも、すでに命あるものではなくなっており、抜け殻だけが残っている。
「…そうだな」
そう答えながらいつのまにか女と普通に会話をしていることに気づく。
ケイオスはふと我に返ったような気持ちになった。
傍らに転がる男の死体を見下ろし、口を開く。
「これから人を呼ぶ」
「…わかりました」
生きた者のまえに姿を見せることを避ける女に、あえてケイオスが告げた意味を、彼女は正確に理解している。
ふわりと音もなくケイオスの傍らに立つと、まるで背伸びをするように顔を近づけて囁く。
「よい夜を」
女が姿を消した後。
朧月の下にひとり佇むケイオスは血の匂いの混じる風の中に、女のつけていた薔薇の香りを感じていた。
【終】
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