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傍からどんなに親しくみえていたとしても
オレと彼女の間には、侵すべからざる領域がある。
「ほら、遊んでないで行くぞ、イリス」
いつものように掲示板を確認して内容をノートに写したエッジが、何かに気を取られているイリスに声をかける。
「あっ!待ってよエッジ!―うきゃっ」
返事を待たずすたすたと歩き出したエッジをイリスが追いかけ、その途中でいきなり躓いて前のめりに転びかけた。
目の前に飛び込んできたエッジの腰に思い切りしがみつき、あわや転倒を免れる。
「〜〜イリス」
突然の背後からの衝撃に踏ん張って立ち止まったエッジは、その衝撃の原因を振り返ることなく察してその名を呼ぶ。
「ありがと、エッジ。助かった」
「別にオレは助けてない。それより、早く立て」
「ん。ごめん」
エッジは自分の腰にしがみついたまま膝を床についてしまっているイリスの手をとって立ち上がらせる。
その際、イリスが躓く原因となった長い布の端を指でつまんだ。
「…やっぱり長すぎじゃないか、これ?」
「えーそんなことないよ。これがちょうどいいの!」
腕に絡めるようにしている青紫の長衣に似た布をイリスが抱きしめる。
…確かに、その長衣のおかげでいろいろ隠れているけれども。
「つけるならせめて行動の妨げにならないものにしておけ」
エッジと同じミストルースになる!とイリスが宣言してから、その都度言われていたことに、イリスはぷくっとほほを膨らませる。
「街中ならかまわないが、このまま探索に向かうのはあぶな…うわっ」
ばふっと布で顔を叩かれ、エッジは言葉を途切れさせる。
「大丈夫だもん、ちょっと慣れてないだけだから、すぐに慣れるよ!」
「だからそれまでが…おいよせ、場所を考えろ」
ばふばぶと何度も叩かれながら、エッジは周囲の気配を感じ取りふくれっつらのままのイリスを止めようとする。
まだギルドの中なのだ。
周りには依頼を受けに来たミストルースや、彼らへの依頼のために訪れた街の人間の姿もある。通路で突然始まった二人の痴話喧嘩(としかみえない)に驚いて立ち止まるものもいた。
当然、ギルドの職員もそこに含まれる。
「エッジさんとイリスさん、まるで兄妹のように仲がいいんですね」
すねたイリスを抱えるようにして止めたエッジに、くすくすと笑い混じりに声がかけられる。
「アナ」
ぱっとイリスがほほを染めて、エッジの腕から抜け出す。
「こんにちは。お仕事ご苦労様です」
「あ…ああ」
おっとりとした物腰で微笑んだギルドの受付嬢に、先ほどまでの様子を見られていたと知ったエッジもイリスも、照れて正面から顔を合わせづらい。
そんな二人を見ながら、アナは「そういえば」とイリスに声をかけた。
「イリスさんはミストルースの仕事をはじめたばかりですが、仕事はいかがですか?無理なさったりしていませんか?」
「う、うん。大丈夫。 エッジも一緒だし、私に向いてるよ!このお仕事」
「それはよかったです」
「……」
気遣うアナの言葉に力いっぱい頷いたイリスの返事に、横を向いたエッジのため息が重なった。
息苦しさに寝返りをうったあと、エッジは唐突に目を覚ました。
こもった空気は体にまとわりつくように重く、ぎしぎしと風車の回る音が響く暗闇の中、それまでの夢の残滓を拭うように、エッジは汗ばんだ額に手を置く。
ずいぶん昔の、イリスと一緒にミストルースをはじめたばかりの頃の記憶。
(……)
あの頃はよかったとでもいうように…そう無意識の願望が働いているのだろうか。
あるいは、何もできなかった自分を慰めようとでもいうのだろうか。
闇の中でエッジは目を細める。
光に包まれながら、どこか虚ろな目を薄く開き、中空を見つめていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
それと共に聞きたくもない声が、言葉が、呼び起こされる。
額に置かれたエッジの手がこぶしを作り、それに力がこめられる。
『あれ』から彼女には、目立った変化はない。
少なくとも本人はそう言っているし、『呪い』の影響らしいものも、今のところは、ない。
だが形として表れていないだけで、それは彼女の中に今でも巣食っているのだ。
ふわりと、空気が動いた。
仰向けになったまま、腕を下ろし中空を睨んでいたエッジの視界の隅に、白い人影が過ぎった。
それはエッジの傍を通り抜けて、目の前の水場にたたずむ。
水場の窓から差し込む青い夜の光の中に朧に浮かび上がっていたその姿は、闇になじんだ目にははっきりと映る。
普段は結い上げている、肩に滑らかに流れる髪。
下着姿と見紛うような、やわらかい布地で作られたシャツに太ももまであらわなショートパンツ。
(…イリス…?)
寝巻き姿のまま、じっと水場にある桶の中に溜まった水を見つめ続けるイリスの横顔を、エッジもまた見つめる。
硬い、思いつめたイリスの表情に、エッジは息を潜めた。
彼女がまとう静寂を、脅かしてしまわないように。
今、自分が目にしてるものは、普段彼女が見せないでいる部分。
あるいは、自分が見てはならない部分。
けれどもエッジの目はずっと、イリスの姿を捉え続けている。
『なぜそんな顔をする』と、理由を尋ねたい衝動に駆られる。
昼間「大丈夫」だと言った言葉には、別の言葉が隠されているんじゃないかと問い詰めたくなる。
だが、それをたずねることが自分にはできない。
彼女の「領域」に触れる勇気が、今はまだ、ない。
それまで動かなかったイリスが、再び息を宿したように体を震わせた。
そして、何事もなかったように身を翻すと、ゆっくりと部屋を出ようとする。
そのとき半端に引かれた仕切のカーテンの向こうに、眠るエッジの姿を見つけて微笑んだ。
屈みこみ、腰の辺りまでめくられた掛け布を、そっと肩にかけなおす。
イリスの気配を感じて目を閉じていたエッジは、彼女が体を起こす間際、薄く目を開けた。
寝たふりをしているエッジに気づいてないイリスは、口元に微笑を浮かべて声に出さずに言葉をつづる。
「……」
声のない、唇だけの動き。
しばらくして。
彼女の気配が遠くなったあと、そこに歯を噛み締める嫌な音が響く。
額に片腕を預け、エッジは小さく呻いた。
「…馬鹿か…オレは…」
【終】
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