「では、こちらをよろしくお願いします」
「承りました、クロイツ枢機院長」
若い枢機員が出て行くと、ドアがぱたん、と小さく空気を揺らした。
もう見る者もないと思えば気も緩んで、クロイツは小さく嘆息して頭を垂れる。
ややあって、彼はぎゅっと閉じていた瞳を薄く開いた。
(……私がしっかりしていなければ)
年若い二人が、今、異世界を彷徨っている。
心配しかできない歯痒さをかみ締めて、
それでも彼はいつもどおり、枢機院の仕事をこなす事しかできない。
クロイツの緑玉の瞳が苦悩に揺れる。
近頃は二人を心配するあまり睡眠もろくに取れていない。
それでも、枢機院長としての佇まいを崩すことはできずに、一人ただ耐えていた。
――コンコン
小さい音が静寂を打ち消して、はっとしたクロイツは再び枢機院長としての表情に戻る。
「入りなさい」
「失礼致します、クロイツ枢機院長」
ふわり、足音もなく滑り入る、闇のマナ。
司書である彼女の、お気に入りであるらしい赤の衣装が揺れる。
「ご相談頂いていた本をお持ちしました」
「そうでしたね、ありがとうルテネス」
ルテネスが抱えてきた8冊もの本を早く受け取ろうとクロイツが手を伸ばすと、伸ばした指先が彼女の指先に触れた。
一瞬、ルテネスが顔をしかめる。
「――どうかしましたか?」
クロイツはケガでもしているのかとルテネスの顔を覗き込んだが、首をふるふると横に振られる。
ルテネスは、伸べられた手には本を渡さず、机の上に下ろした。
「今日は冷えますね、クロイツ様」
「そうですね、少しばかり」
「………………」
何の気なく返事をすると、彼女の表情はいよいよ曇った。
意味が分からず、クロイツは不思議そうな表情を浮かべる。
「――ウソです」
「はい?」
「今日は寒くなんてありません。いつもより暖かいくらいです」
言って、沈痛な表情で執務机の上に伏せられたクロイツの手に自らの手を重ねる。
「それなのに――なぜこんなに手が冷えているのですか」
乗せられた掌はやけに暖かくて、そこでクロイツはようやく自覚した。
「――なんでもありませんよ」
すっと手を退けて、取り繕った笑顔を向けるが、ルテネスは表情を歪めたままで。
「――ヴィーゼはきっとうまくやってくれます。フェルトだって無事のはずです」
悲しげな、しかし意志の強い目でつぶやくように語られた言葉に、
クロイツのせめてもと繕っていた表情は崩れた。
「……私のポーカーフェイスは、あまり上手ではないようですね」
苦笑して、小さくため息をつく肩に、ルテネスは弱く微笑みそっと触れる。
「私、温度を感じる能力が人と同じようにあってよかったと思います。
あなたの手が、冷たいのも分かりますから」
クロイツはその言葉に一瞬強く眉をひそめるが、
体の横におろした手をルテネスに拾い上げられて、冷え切った指先を暖かい手に包み込まれて。
「それに、伊達に何年も枢機院であなたの顔ばかり見ていたわけではありません」
ルテネスには珍しく冗談めかした言葉に、クロイツはくす、と笑みを漏らした。
その温もりと穏やかな沈黙に安らいで、硬く凍っていた表情は緩んでいった。
――重ねた掌と掌の温度がすっかり馴染む頃、ぽつり、とクロイツは呟くように話し始めた。
「……私は、二人を疑っているわけではありません。
フェルトもヴィーゼも、あの二人は本当にがんばりやで、まじめで」
そこまで言って、表情が険しくなる。
「――だからこそ、危険なのです。頑張りすぎてしまう時がある」
「……そうですね」
「がんばって、がんばって、無理を押して――もしもの事があったら」
「……クロイツ様……」
語り続けるクロイツを、ルテネスはただ苦しげに見つめる。
「……枢機院長としては、あの選択で間違いなかったと思います。
しかし、あの二人を親のような思いで見てきた『私』が納得していないのです」
「……クロイツ様は二人の帰りを、そんな表情で迎えるおつもりですか?」
指摘されて、クロイツははっと顔を上げた。
「信じましょう、二人を。そして、リリスの加護を。二人はきっと笑顔で戻ります」
普段見せない彼女の優しい笑顔にひっぱられたかのように、クロイツは僅かながら笑みを浮かべる。
「あなたは強いですね、ルテネス」
ルテネスは意外な言葉に面食らったような表情を浮かべた。
(強い?…………私が?
――そうであるなら、私がそうあれるのはあなたがいるからです。
あなたが枢機院長としてエデンを守っているから。
だから、私はずっと……あなたの支えになりたくて)
そのクロイツが、今、苦しんでいる。
どうすればその思いを緩めてあげられるのか、とあれこれ考えるけれど、
本の虫の彼女はこれまでに読んだ本の内容などを思い起こすしかできなかった。
しかしそれでもやがて、昔どこかで目にとめた埒もないまじないが頭に浮かんで、ルテネスはぽつりとつぶやいた。
「――不安でしたら、おまじないでもして差し上げましょうか」
「博識なあなたのことですから、とてもよいまじないをご存知なのでしょうね。お願いしますよ」
「では、目を閉じて」
言うままにクロイツが目を閉じるのを確認して、そっと両肩に手を乗せる。
どう思われるのかと一瞬悩みつつも、これはおまじないだから、と内心に言い訳をして。
ルテネスはそっと唇に口付ける。
一瞬の掠めるようなそれを離して目を開くと、
確かに閉じていたはずの目が開いていて、視線が絡んだ。
――驚きの色を多分に含んだ翠色。
口付けたその一瞬も、もしや目を開いたまま受け容れたのではと思うと――恥ずかしくて、あまりに恥ずかしくて。
ルテネスの頬がさっと朱に染まった。
あわてたように身を離すのを、クロイツはまだ不思議そうな表情のまま見ている。
「……そんな顔をなさらないで下さい、クロイツ様」
「……ルテネス?……今のは」
「おまじないです。――それでは私はそろそろ図書室に戻ります」
枢機院長である彼の言葉を打ち消すようにしゃべって、ルテネスはさっと身を翻す。
しかし、廊下に向かって進もうとした体は途中でぴたりと止まってしまった。
「――クロイツ枢機院長、私はもう図書室へ」
立ち上がったクロイツに、長い法衣の中の細い手を掴まれて。
しかし振り返り見上げる先は逆光で、表情を伺うことはできなかった。
「待ってください。……あなたに聞きたい事があります」
いつもどおりのまじめな声でありながら、
いつもとは違う音を含んだその問いかけの声に、ルテネスは身を硬くする。
「申し訳ありませんが、予定もありますしこれで失礼を」
「ほんの少しで済みます」
珍しく強い調子で止められて、ルテネスにはそれをはねつけてまで外に出ることはできなかった。
「――わかりました、では手短に」
しかし、聞かれる内容など、わかりきっている。
「先ほど……のは、親愛ですか?慰めですか?それとも――」
ルテネスは想定しきった問いには答えずに、ただ首を小さく横に振って見せた。
「……聞かないで下さい」
「けれど、ルテネス」
「私はただの司書です。……わかっていますから、ただ一度の過ちとこの無礼をお赦し下さい」
重ねられた問いの言葉にわざと言葉を重ねて。
しかし、逃げ出そうにも掴まれたままの手を開放してもらえず、
ルテネスは視線を合わせられずにじゅうたんの敷かれた床に目を落とした。
……踏み込み過ぎてしまったがために、とんだ事になってしまった。
心に浮かんだ、後悔にも近い感情にルテネスは顔をしかめる。
「責めるつもりではありません、ただ、その……」
クロイツが珍しくまごついた物言いをするのを、ルテネスは思わず見上げた。
逆光の中、彼はゆるゆると首を振って、開いているほうの手で口元を覆う。
「すみません、卑怯な聞き方をしました」
「……クロイツ様?」
ルテネスが次の言葉を待つうちに、太陽に雲がかかった。
闇に隠れていたクロイツの姿が僅かずつはっきりしていく。
――彼は恥ずかしそうに目を伏せて、頬を染めて、眉を僅かにひそめていた。
「先ほどの口付けに……おまじない以上の感情を、期待しても……よいのでしょうか」
呟くように落とされた言葉の意味を、ややあって理解したルテネスは目を見開いて頬を染めて。
二人は刹那、見つめ合った。
……しかし、彼女は決意と悲しみを含んだ表情で俯き、首を横に振る。
「私はマナです。……人とは、違う存在なのです。ですから、『過ち』と申し上げたのです」
告げられた言葉の意味を解して、クロイツの表情が苦々しげに歪み、僅かに俯く。
「……想う心に、種族の違いなどあるのでしょうか」
「私たちが無いと思った所で、人の目はそうは見ないでしょう。
……クロイツ様が変わり者と呼ばれ、蔑まれることになります」
クロイツはその言葉にばっと顔をあげて、
ルテネスの瞳に浮かぶ不安を断ち切らんとでもするかのように大きく頭を振った。
「そんな事は構いません」
「クロイツ様!私が言っているのは、あなたが――」
罵られ蔑まれるのは、私自身が耐えられないからです!
――そう、珍しく語句を荒げて続けようとした言葉は、クロイツのローブの胸元に消えた。
「……きっと、後悔します」
「しません」
「……悩み苦しむことになります」
「なりませんよ」
強引に押し込まれた腕の中でルテネスは力なく繰り返したが、
クロイツの意思は腕にこめられた力以上に強いようだった。
――二人は、いつのまにか床に座り込んでいた。
ルテネスは腕から抜け出すことを諦めて、小さくため息をついて。
クロイツの腕に、ほんの少し身を預ける。
しかし、一度委ねてしまえば心地よくて、そのまま時が止まることすら望んでしまった。
「――私は卑怯な事ばかりしていますね」
「…………はい?」
凪いでいた空気が密やかに揺れる。
「あなたに答えを求めてばかりで、何も伝えていない」
「クロイツ様……」
腕の中で大人しくしているルテネスに、優しく微笑みかけて。
「ルテネス。私はあなたが……」
大事な言葉を伝えようとした口元をさっと塞がれて、部屋に再び静寂が戻った。
クロイツはルテネスの行動に納得いかないといった表情を浮かべたが、
ルテネスは穏やかな笑みを湛えて、囁いた。
「……その先は、二人が帰ってきてから伺います」
クロイツはその言葉に僅かに目を見開いて、それから幸せそうに微笑んだ。
ルテネスは微塵も疑っていないのだ。
フェルトとヴィーゼが無事で戻るということを。
――そして、だからこそ彼女は、二人が帰ってきてから……と言うのだと。
口を塞いでいた手がゆっくりと下ろされると、クロイツは嬉しそうに言葉を紡いだ。
「……ならば、優しいあの二人は、きっと早く帰って来てくれますね」
「はい。それまで……あなたが望むのなら、その後も。
私はあなたの冷えた手を暖める役を担いましょう」
「ありがとう、ルテネス」
ルテネスがクロイツの手を再び優しく包むのを、さらにクロイツはもう一方の手で包み込んで。
目を細め見下ろす視線をルテネスは穏やかに受け止めて、身を寄せる。
「……リリスに祈りましょう。私たちの大切な家族が……一日も早く、無事にエデンに戻るように」
「ええ……」
部屋に差し込む光は大きく窓枠の形に切り抜かれ、二人をただ穏やかに照らしていた。
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